十五少女漂流記

■第四話





「あ。菜の花ちゃーん!」
 ふと、背後から掛かった声に、私―――哀元菜の花―――は振り向いた。
 そこに居たのは、なにやら大きな旅行カバンを肩に掛けた皐月萌嬢だった。
 相変わらずハイテンション、なんて思いながら、私は微笑む。
「なぁに?どーしたの?」
「えっとねー、これ、海から流れてきたの!」
 よいしょ、と、萌はカバンを地面に下ろす。
「海から?…中身は?」
 私は萌と一緒にカバンの傍にしゃがみこんだ。
「なんか怖いから、誰かと一緒に開けよーと思って。そこで菜の花ちゃんを発見したのでーす。」
「ふぅん、そっか。じゃ、開けてみようか。」
 別に躊躇いもなく、カバンのファスナーに手を掛けた。
 だって、こんなところに死体の入ったバッグが流れてくるワケもないでしょ。
 誰のものともわからないカバンを開けることに抵抗はないのかと言われるかもしれないけど、私は察していた。おそらくこのカバンは、あの客船の乗客の物だろう。
 …そしてその乗客は、既に命はないのだろう、と。
 ファスナーを引いて、萌と一緒に中を覗き込む。
 案の定、そこにあったのはごく普通の旅行セット。衣類、洗顔具、本といったところか。
「ねーねー、人のカバン勝手に見ていいのかなぁ?誰のかわかんないし。」
 萌の無邪気な疑問。現実を教えてあげる?…ううん、そんなことしない。
「そうだけどぉ、誰のものかわかんないから、その持ち主さんが誰かっていう手がかりを探して、その人に返してあげよ★」
 と私が言うと、萌はパァッと笑って、
「そっかー!そうだよね!」
 などと言いつつ、ごそごそとカバンの中を詮索し始めた。ま、なんだかんだで中身が気になってはいたのだろう。
 私はカバンの隅にチョコンと入っている、手帳のようなものを摘みあげた。海水で濡れてしまっているけど、表紙を開けると中の文字は滲まずに残っていた。
 湿った紙を捲ると、最後のページに、ご丁寧に住所も名前も書いてある。
「――桐生裕梨(キリュウ・ユリ)…。東京都練馬区在住。」
 大人っぽい達筆な文字を読み上げる。字の感じから見て、二十代ってトコ?
「キリュー、さん??」
 萌がきょとんと私を見るので、小さく頷く。
「このカバンの持ち主さん、どうしちゃったんでしょうねぇ。」
 などと言って、不安げな表情を作って見せた。萌も不安げに首を傾げる。
 パラパラと手帳を捲る。そのスケジュールから、どことなく持ち主の生活を察することが出来る。
 えーと?…三月、「休日」、「休日」、「休日」。
 月に三日の休み。忙しい人なのかな。
 四月。「休日・梨花の入学式」、「休日」、「休日」。
 …梨花?…ん?じゃあこの人、子持ちとか?
 八月。「退職」、「旅行出発」。
 仕事辞めて、あの船旅に参加した…か。
 どうでもいいんだけど、この人のスケジュールに「遊び」の文字が一つもないのよね。
 寂しい人、なのかなー。
 そして、八月以降のスケジュールは空欄だった。
 うーん、つまんない。
 パタン、と手帳を閉じた。その時、
「…あれ。」
 手帳から、カードのようなものが落ちた。
 ―――あ、免許証だ。
 私はそれを拾い上げ、じっくりと眺めた。
 桐生裕梨、昭和五十七年一月二十二日生まれ。…二十三歳。
 そしてそこに写された顔写真。なかなかの美人だった。
 ふぅん――。
「ねね、菜の花ちゃぁん。これ、どーしよ。その人どこいるかわかんないしー。」
 一通りカバンを探り終えたらしい萌が言う。
 私は手帳をポケットに入れて、カバンのファスナーを閉じた。
「わかんないけど…私達も洋服とか欲しいでしょぉ?だから、使っちゃってもいいんじゃないのかな。洗って返せばいいし、ね?いちお、みんなにも相談して。」
「そっか。そうだね。じゃ、焚き火のとこに持って行こー!」
「うん。」
 カバンを抱え、歩き出す萌についていく。
 ふわふわ揺れる萌の二つ結びを眺めながら、私は何気なく思った。
 ―――無邪気だなぁ。
 私とは大違い。
 私とは―――
「ねーねー、菜の花ちゃん。菜の花ちゃんってぇ、恋人とかいるの??」
 萌が不意に振り返り、無邪気な笑顔で問う。
 その笑顔に、私はフッと笑み返した。
 彼女と私の違いが、なんだか可笑しくて。
「ううん、いるわけないですよぉ。いつか、白馬の王子様に迎えに来てもらうのが夢なんです★」
 自分で言った言葉に、少し吹き出しそうになった。
 白馬の王子様。そんなの居るわけないじゃない。馬鹿馬鹿しい。
 ―――恋人なんて、数え切れないくらいいたわよ。
 私のこの無邪気な笑顔に騙される奴が、数え切れないくらい、ね。
 馬鹿な奴等だって思ってるのに、私はいつまで経ってもこの仮面を捨てない。
 それは何故?
 …それはね、楽しいから。
 無邪気な仮面の下で、私は、いつも嘲笑を浮かべているのよ。
 私の本性は、心から愛した人にしか見せてあげない。
 単細胞な人間を心の中で嘲っている私が、私は、好きなの。





「純、さん…。」
 恐る恐る、声を掛けた。
 その女性は、焚き火のそばに一人。
 焚き火に向かって―――つまりこちらに背を向けて、流木に座っている。
 あたし―――真宮寺芹華―――は、少しの間黙っていたが、彼女の反応がないのでもう一度声を掛ける。
「純さーん…。」
 先ほどよりも大きめの声で言うが、やはり彼女は反応を見せない。
 えっと……。
「純さん!」
 今度は、更に大きな声で。
 ―――だけど、彼女はやはり無反応。
 今の声量なら、さすがに聞こえたはずだ。
 なのに反応しないっていうことは…もしかしてこれは、いわゆるダンマリというやつか?!
「…ぅ。…あの、怒ってるんだよね?…謝ろうと思って、その、来ました…です。あの、…ごめんね、純さん…?」
 …………。
 …………。
 …………。
 …………。
 …こ、これは。
 果てしない焦りを胸に、あたしはそっと純さんに歩み寄った。
 あたしに背を向けたまま黙り込む純さんの向かい側に回りこむ。
「純さ…――あれ?」
 女性は、静かに目を瞑っていた。
 これ、って―――。
 あたしはそっと、目を瞑る純さんの肩を抱いてみた。
「―――……わぁっ!?」
 少しの間の後、パチリと目を開けた純さんは、驚いた様子で声を上げた。
 その後、きょとんとした顔であたしを見つめる。
「…お、おはよう。」
 あたしが小さく言うと、純さんはふっと微笑みを返した。
「芹華さん。おはようございます。」
 その微笑みにすーっと安堵感が巡り、あたしの緊張をほぐす。
 あたしは純さんの隣に座り、そっと、肩に手を回した。
「……。」
 不思議そうにあたしを見て、また微笑んでくれる純さん。
 まるで天使のような微笑に、あたしは照れくさくなって目線を逸らした。
 焚き火がパチパチと燃えるのを眺めながら、あたしは言った。
「あ、あのね…なんか、すごく待たせちゃったみたいで…。…その、…ごめんね。」
 言葉を選びながら途切れ途切れに言うと、純さんは何も言わず、あたしの肩に頭を寄せた。
 うわ…。
 ふわっと香る純さんの女性らしい香りとか、あたしの袖から露出した腕に純さんの髪が触れる感覚とか、純さんの重みとか。
 一人の女性が、こうして傍にいる。その事実に、あたしはドキドキした。
 あたしはそっと、純さんの顔を覗き込んだ。
「 ―――すぅ。すぅ。」
 ……………。
 心地よさそうに寝息に零す純さんに、ちょっと拍子抜けした。
 …でも、それと同時に、自責の念がふつふつと湧いてくる。
 あたし、こんな素敵な人、待たせて…。
 なんかものすごく悪いこと、しちゃったみたい。
「…純さん、ごめんね。」
 聞こえなくてもいいから、そう、伝えたかった。
 そして――
「好き、だよ。」
 と、小さく囁いた。
 聞こえていないから、言ったのかもしれない。
 こうして傍にいる女性に囁くことで、自信が欲しかった。
 あたしはこの人のことが好きなんだっていう、自信が。
 昔の人など忘れてしまうくらい、愛したかった。
 …でも――。
「芹華、さん。」
「え――?」
 突然名前を呼ばれ、少し驚いて純さんを見遣った。
 悪戯っぽくあたしを見上げ、クスッと小さく笑みを零す。
「寝たふり、してみたの。…芹華さんの誠意を見せてもらおうと思って。」
「…。」
 かぁぁっと顔が赤くなると同時に、苦しくなるくらいの想いが、胸の奥から込み上げる。
 なんて素敵な人なんだろう。なんて可愛くて、なんて……。
 言葉で言い表せないほどの、熱い想い。
 だけど、想いが大きいほど、切なさも大きくなっていく。
 あたしは本当に、この人を幸せにできるのだろうか。
 わからない。――わからない。
「どうして、そんな不安な顔、するの?」
 純さんは囁くように言って、その華奢な手であたしの頬に触れた。
 彼女からくれたくちづけは、甘くて、優しかった。
 だけどやっぱり―――不安だよ。
 あたしはそんな不安を紛らわすように、純さんの身体を、きつく抱きしめた。





「な、な、な、な………。」
 その光景が目に飛び込んできて、あたし―――田中リナ―――は一瞬パニックに陥った。
「あらあら…。まだ戻れないみたいねぇ。」
 隣にいる成さんは、苦笑してあたしの肩を抱き、来た道を引き返すように促した。
 な…なんなの、あれ。
 芹華と純さんが超ラブラブで、とてもじゃないけど近づける雰囲気じゃないし。
 き、キスしてるし、抱き合ってるし、しかもあたしはあたしで、成さんに回された手が…!
 ………。
 って、何、意識してるんだろ、あたし。恥ずかしー。
 昨日の夜から、なんだかあたし、ちょっと変。
 今までずっと…女性同士の恋愛なんて、ありえないって思ってた。
 心のどこかで、あたしには関係ない世界だって思い込んでたし、どこかで軽蔑してたのかもしれない。普通は男女でしょ、って。
 だけど――芹華に、頬にキスされた時、あたしすごくドキドキした。
 それは、なんていうか、男の人を恋愛対象として意識した時の感覚と、よく似てる。
 それで…。女性の姿、つまりみんなを見てると、彼女達とも恋愛することがありうるのかも、とかそんなこと考えちゃって。誰の目もろくに見れない。
 そして―――今ので、拍車かかっちゃったじゃない!芹華のバカ!
 昨日の夜はまだ…なんていうか、「芹華」と「花火さん」だったから。
 あの二人はちょっと普通じゃない感じだし、言い方悪いかもしれないけど、あたしよりも一線越えてる人たちだし。…って、自分に言い聞かせてた。
 だ、だけど今のって悠祈さんだよね!?
 もう、憧れる女性ナンバーワン的な人だったから。物腰もきれいで、優しいし、美人だし。そんな悠祈さんも…そっちの世界の人、なんだぁ。
 …そう言えば、こないだ芹華が「あたしには純さんがいるから」とかなんとか言ってたような。混乱して聞いてなかった…。
 ―――でも、成さんは違う、よね?
 未だに肩に回された手だって、特に何か意味があるわけじゃ、ないだろうし…。
 だけど、成さんならいいかな、なんて―――
 ……え!?
 い、いや。何言ってるの、あたし。…あーもう、あたしおかしい!おかしいよぅー!(クスン)
「リナ?…大丈夫?」
 耳まで真っ赤になっていることを自覚しているあたしに、心配そうに声を掛けてくれる成さん。
 その優しい微笑みとか、色っぽい厚い唇とか、その口の斜め下にあるホクロとか。
 男性ならきっと目を引かれるのであろう彼女の魅力的な部分に、ドキドキしているあたしがいた。
「…あ、あの、成さん。…成さんって、恋人いますか?」
 自分に歯止めをかけたかった。
 成さんなら、きっと素敵な彼氏がいるんだろうなって。
 彼女の口から、そう言って欲しかった。
「恋人?…ううん、いないけど。どうして?」
「え、えっと…それじゃあ、過去のこいび…、…彼氏は。」
 慌てて、そう言い変えた。あたしが聞きたいのは、成さんが異性愛者なのかどうか、だから。
「彼氏?――フフ、そうね。彼氏は高校生の頃に一人居ただけだわ。」
 そう、意味深に微笑む成さんに、あたしは複雑な感情を抱いていた。
 高校生の頃?こんな魅力的な人に、十年近くも恋人が居ないなんて…そんなこと。
 あるわけがない。じゃあ、どういうことなの。…ねぇ…。
「…ッ…。…じゃあ、恋人は?」
 抑えきれなかった。震える言葉で、小さく言った。
 成さんは立ち止まると、その片手を私の肩に沿え、向かい合った。
 そして――
「どういう意味?……それは、彼氏じゃなく、“彼女”が居たかって…聞きたいのかしら?」
「!」
 あたしの心を見透かしたような成さんの言葉に、あたしはなんだか自分が情けなくなって、俯いた。何言ってるの、あたし。…おかしいよ…。
 その時突然、あたしのあごに、成さんの冷たい手が触れた。
 クッとあたしの顔を上げ、目を見つめられた。
「どうしたの?…リナ。」
 彼女の唇が、あたしの名を呼ぶ。
 色っぽい声で。挑発するような言い方で。
 身体に、ゾクゾクするような感覚が、突き抜けた。
 あたしは成さんの瞳から、目を離せなかった。
 そして小さく、口を開いた。
「…あ、…あた、し……、……どうして、同性愛なんて、存在するのか…わからないんです…。」
 そう言い終えた時、成さんの次の言葉が、怖かった。
 彼女が、どちら側の人間であることを望んでいるのか、わからなくなっていた。
 唯、知りたかった。
「―――わからないなら、知りたいと思う?」
「え…?」
 知りたい。何を?…何を――?
「そこに愛があるから。…性別なんて関係ないわ。」
 彼女の目を見つめながら、その言葉を聞いて、その意味を理解するのに、時間がかかった。
 そして意味を理解した瞬間――彼女の目を見れなくなった。
 顔が赤くなって、恥ずかしくて、なんだか不安で。
 あたしは俯いた。
 刹那―――
 一瞬、何が起こったのかよくわからなかった。
「……私が貴女に惹かれている、それが事実であるようにね。」
 成さんに抱き寄せられて、それだけで驚いて。
 彼女が言った言葉にまで、頭が回らなかった。
「…成、さん…?」
 彼女を見上げて、小さく名を呼んだ。
 成さんは優しく微笑んだ。
 その手であたしの髪を撫で、そして――
「好きよ、リナ。」
 確かな口調で、そう、言った。





「………ッ、…う、…ふぇぇっ…」
 ――……?
 微かに聞こえた、その声。
 私―――鳳凰寺楓―――は、足を止めた。
 お日様の高さから言って、おそらく正午を過ぎた頃。
 今は皆で、流木や倒れた木を使い、囲いを作っている。
 そんな中、リナの姿が見えないことに気づいた。
 それを芹華さんに伝えると「じゃ、探して来て。」と言われ、私は特に宛もなく歩いていた。
 小川を少し上ったところでのことだった。
「リナ…?」
 小川の傍に座り込んで、俯いている女性。
 そう、私が探していたその人だった。
「…か、楓? …どうしたの?」
 リナは慌てて、目の辺りを手で拭い、笑顔を作って私に言う。
 彼女の傍に歩み寄り、隣にしゃがみこんだ。
 目の辺りが赤く、彼女が涙を流していたということは、すぐに察した。
「…何か、あったの?」
 私がそう問いかけると、リナは黙り込み、目線を落とした。
 それ以上追求する言葉もなく、私はリナの隣に腰を下ろした。
「―――楓、…誰にも、言わないでくれる…?」
「…ええ、勿論。約束は守ります。」
 涙の理由、聞かせてくれる気になったみたい。
 リナが私に心を開いてくれることが、嬉しかった。
 私が大きく頷くと、リナは微かな笑みを見せ、目線を小川の流れに遣った。
「…あのね。……あたし、成さんにね、…好きって言われちゃったの。」
「…うん。」
 小さく頷く。
 好き…とは。ストレートに好意を表してくれることは、喜ばしいことなのではないかと私は思った。だけど、彼女の様子は、素直に喜んでいるようには見えない。
「…どうして、好き、なのかなぁ。……あたし、わかんないよ。どうしてそんな感情、抱くのかな。」
「どうして、って…」
 小首を傾げて、私は考えた。
 どうして?―――好きに、理由なんてないと、思う。
「…私も、リナのこと、好き…よ。…それは、いやなこと?」
 少し照れくさいけど、私は言った。
 リナは少し驚いた様子で、私を見る。
 じっと私を見つめた後、リナはふっと、笑顔を零した。
「あ、そっか。友達だもんね。……そう、だよね…。」
 そしてリナは、考え込むように押し黙った。
 まだ、私はリナが何について思い悩んでいるのかわからない。
 それでも、リナが拒絶しない限りは、リナの傍にいようと思った。
 心配だったし、少しでも彼女の力になれればいいと思った。
 だってリナは、私の大切な友達だから。
「あたしもね、楓のこと、好きだよ。……成さんのことも、好き。―――だけど…私の好きと、成さんの好きは、形が違うみたいなの。」
「形、が?……どんな風に違うの?」 
「…だから、その…。…あたしは、ただ、頼れるお姉さんだし、優しいし…楓が好きっていう気持ちと同じように、成さんのことも好きなんだと思う。だけど、成さんがあたしに向けてくれる好きはね、…恋愛感情、なの。」
「…恋愛感情――?どうして?女同士なのに。」
「どうしてって思うでしょ。あたしもそうだった。…昨日までは、ね。」
 リナが言っていることが、上手く理解出来なかった。それがもどかしくもあった。
 恋愛っていうのは、男女間で行われるもの。私も、何度か男の子から好きだって言ってもらったことがある。彼らの好きが、友達を好きだという好きとは違うものだっていうことはわかっているつもり。…でも、私自身、その好きは感じたことがないんだと思う。
 きっと私は、恋をしたことがない。
「楓、知ってる?…芹華と悠祈さんは、恋人同士なんだよ。」
「…えっ!?」
 リナが突然口走った言葉に、私は驚いた。
 だって、芹華さんも女性だし、悠祈さんも女性、だから。
「……あの、リナ。一つ聞いてもいい?」
 私の常識からあまりに外れている言葉に、ふと思ったのは、私の知識不足ではないか、ということ。私はいわゆる箱入り娘で、俗世のことを知らなすぎるのだと思う。
「うん、なに?」
「―――女同士でも、恋愛って、するの?」
 当たり前じゃない、と言われそうで不安だったが、私はリナに問う。
 リナはきょとんとした顔をして、小さく笑った。
「だーから、そのことについて話してるんじゃない。…楓っていいなぁ。なんか、純粋で。」
「…えっと、…ご、ごめんね。私、何もわからなくて。…力になれない、かなぁ。」
 いたたまれない気持ちなのだが、そんな私に反して、リナはクスクスと笑っている。
 リナが何が可笑しいのかすらもわからない…。
 なんだかふてくされた気持ちになって来たが、リナは笑顔で、
「あ〜、楓ってば、最高!」
 と言う。
 何が最高なんだろう。
 …だけど、リナが笑顔になってくれたし、少し私も嬉しくて、笑った。
 しばらく二人で笑っていたが、ふと、リナは小さく言った。
「…ねぇ楓。―――もし、あたしが、キスしようって言ったら…どうする?」
「………き、キス!?」
 リナが突然言い出した大人の言葉に、私は驚いた。
 キスって…、キスって…、キスって…。
 私の苦悩は知らず、リナは先ほどから比べるとずっとずっと穏やかな表情で言う。
「えっとね…、思ったんだけど、あたしたちにキスは必要ないんだよね。あたしは楓のこと大好きだけど、別にキスしたいとは思わないの。…――でも、恋だったら、キスしたいって思うのかな。」
「…う、ううん、わからないけど…。……私も、リナにキスしたいとは思わないよ。だけど、イヤだとも思わない、かな。」
 自分の感情をなんとか整理しながら、私はそう言った。
 私の言葉に、リナはふっと、悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「…じゃあ、してみようか?」
「……え?……う、…えと、…うん、いいよ…?」
 少し躊躇いながらも、小さく頷く。
 そもそも、キスってなんだろう。
 唇を合わせる行為だということをは知っている。
 だけど…何のためにするのかな、って。
 自ら、キスがしたいと思ったことはないし、今だって、したいという気持ちはない。
 そもそもキスをしたことだってない。求めたこともなければ、求められたこともない。
 だけど、リナがしたいのならば、私は構わない。
 リナがしたいことをして、リナが嬉しいなら、私はそれが嬉しいと思う。
「―――本当に、いいの?」
 リナが確かめるように言う。私はコクンと頷いた。
「それじゃあ…目、瞑って。」
 そう言いながら、私の腕をそっと握った。
 少し緊張するけど、リナに言われるままに目を閉じた。
 そしてすぐに、ふっと唇に触れた感触。
 柔らかい、リナの唇。
 その感触はあっと言う間に消えた。
 私が目を開けると、じっと私を見つめるリナの真っ直ぐな目が映る。
 少し見つめあった後、どちらからともなく笑った。
「わかんないね。」
「うん、よくわからない。」
 二人で言い合って、また笑った。
 多分、何の意味もない行為。
 けれど少しだけ、嬉しかった。
 キスをしたことよりも、今、こうしてリナと笑い合えることが嬉しかった。
 ひとしきり笑った後、不意にリナが小さく零した。
「……あたし、成さんのこと、好きなのかな。」
 とても穏やかな表情で、リナは小さく言った。
「―――でも、まだよくわかんない。」
 そう微笑んで、リナは立ち上がった。
 そこにはもう、思い悩んだ表情はなかった。
「ねぇ、リナ。」
 私はそんな彼女を見上げ、小さく呼びかけた。
「うん?」
「あのね、私、女同士でも、恋してもいいんじゃないかなって思う。…それは、おかしいことじゃないんだと、思うよ。」
 リナは穏やかな表情で、私を見つめていた。
 そしてふっと目線を逸らし、リナは小さく笑みを浮かべた。
「―――うん。」 





「うーん、いまいちパッとしないな。」
「確かに。これまでに比べれば安全性は上昇するけど、雨をしのぐことは出来ない。」
 福智さんの言葉に、僕―――秋月遊夢―――は頷いた。
 一先ず、簡単な風避けということで、流木や倒れた木を柵状に並べる作業は終了した。
 これまでに比べれば、風もある程度はしのぐことが出来る。
 しかし、雨が降ってくれば当然それを避ける術はない。また、獰猛な野獣に襲われた場合にも、出入り用に開けた部分から容易に進入されるだろう。
「くっそー。もうちょっとカッコイイもん作れないのか?ログハウスみたいなやつ。」
「それには、建築用の機材が必要。鋸も鉋もない此処では、難しい。」
「機材ねぇ。……どっか落っこちてないか?…ないよなぁ。」
 ログハウス。作れるならば作りたい。
 材料は豊富にあるが、残念ながらそれは―――
「はい、機材だよ。」
 …。
 突然、背後から聞こえた声に、僕と福智さんは振り向く。
 そこには、鉄の機材入れを持った皐月さんが居た。
「よいしょっと。あー重たかったぁ〜。」
 福智さんは、呆気に取られたような様子でその機材入れを見つめていた。
 信じられない気持ちはよくわかる。
 僕は皐月さんが地面に置いた機材入れを開けてみた。
 そこには、釘や鋏、そして鉋や折畳式の鋸までも入っていた。
「……一体、どこでこれを?こんな重量のある物が、海を流れてくるとも考え難い。」
 僕の問いに、皐月さんは笑顔を浮かべた。
「だよねーすごいよねー!なんかね、救命ボートみたいなやつに乗っかって来たの。あ、ボートね、他にも色々乗ってたみたいだよぉ。」
「………本当に?」
 疑うつもりはないのだが、あまりに現実味のない出来事に、思わず確認していた。
「ま、マジかよ…。すげー。……これなら、ログハウスとか作れるんじゃ!?」
 僕と一緒に機材入れを覗く福智さんの言葉に、僕は頷く。
「可能だ。」
「本当か!?…よし、頑張ろう!な!」
「…う、うん。」
 この世には、奇跡というものが存在すると聞く。
 もしそれが本当ならば、今この瞬間、その奇跡が起こっているではないかと思う。
 確率的に考えれば、それは1%にも満たない、あまりに在り得ない話だ。
 これが夢なのではないかとすら思う。
 だけど、事実だ。
 ―――本当、に。
 それから、僕らは流れ着いたという救命ボートへ向かった。
 中には、充電の切れた携帯電話、煙草が5カートン、男物の衣服が5着、寝袋、そして一冊のノートがあった。それには全て日本国の文字がある。
 僕は、ノートを手にとった。
 表紙には『俺』と、表紙目一杯に書いてある。
 そして、表紙を捲った。1ページ目。

『これは、俺様の人生をつづった「俺様日記」の第128冊目だ。俺様以外の人間がこのノートを手にすることはないと思うが、万が一このノートを見る奴が居るなら、一言言っておこう。このノートは、俺様の人生を事細かに書きつづった、究キョクの日記帳だ。心して見るがいい。』

 ………。
 一瞬ノートを閉じようかと迷ったが、この自称俺様なる人物の素性を知るため、僕はまたページを捲った。

『今日の俺様も最高だった。煙草を買いに出かける途中、いきなり警察官から声を掛けられた。名前は何かと聞かれたので、俺様は抜群のユーモアセンスを披露すべく、『俺様だ!』と胸を張って答えたところ、なぜか交番まで連れて行かれた。そうか、俺様の話がもっと聞きたいか。仕方のないやつらだ。仕事は何かと聞かれ、こればっかりは流石(りゅうせきと書いてさすがと読む。物知りな俺様をほめ称えるが良い)の俺様も、ユーモアセンスを披露するワケにはいかない。俺様は誰よりもこの職業に誇りを持っているのだからな。『大工だ!』と胸を張って答えたところ、警官は出て行って良いと、俺様を交番から追い出した。やはりやつらは俺のユーモアセンスに惚れていたのか。だから素直に答えた俺様を逃がしたのか。まったくもって仕方のないやつらだ。しかし俺は世界一職業にプライドを掛けた男。嘘はつけねぇさ。』

 ………。
 このノートを読んでいると、何故だか体調が悪くなる。ムカムカとした感覚がフツフツと湧く。
 けれど、どうやらこの男は、大工らしいということが判った。
 それだけでも良しとするべきか。
 ………。
 パラパラとページを捲ると、最後の数ページが空白であることに気づく。
 そこから戻り、一番最後の記事を読んだ。

『俺に、もっと力があれば。俺がもっと腕のいい大工だったら。まだマシな応急処置が出来たかもしれない。なんてこった。俺は生まれて初めて、自己嫌悪というやつを感じた。今この瞬間、俺の乗っている船が沈んでいく。俺は今から、救命ボートへ向かう。今も、この客船の乗務員が急げと急かしている。もっと早く船の故障に気づいていればよかったのに。なんてこった。ちくしょう。
 この船に乗った人間全員が助かるなんて奇跡、神様が起こしてくれるだろうか。いや、この船に乗った数人でも助かるなら、それは奇跡かもしれない。もしそうなら、神様ってやつに俺の命はくれてやる。だから、まだ若い嬢ちゃん達を助けてやってくれ。そして最後に言わせてくれ。俺はやっぱり、俺よりも俺様の方が似合ってるだろ?』

 ………。
 俺様、か。
 もしこの男が、既に命亡き者なのならば。
 この男の犠牲によって、奇跡というものは起こったのかもしれない。
 …なんて、非現実的なことを考えさせられる。
 これが男が最後に記したものだとすれば。
 僕たちは、この男の冥福を祈ってやらなければならない。
 でも、信じていたい。
 こんなふてぶてしい人間だ。――どこかで生きているはずだと。





「気をつけて下さいね!こっちは大丈夫ですよー!」
「よし、行くぞー!」
 アスカちゃんと晶さんの声が行き交い、まもなくして、木がゆっくりと倒れ行く。
 ズゥン…と低い音を立て、たった今まで太陽へ向かって伸びていた若木は、地面に倒れ込んだ。
 私―――桜木舞―――は、少し離れた所から、そんな光景を眺めていた。
「よーし!舞ちゃん、運びましょー!」
「あ、はい。」
 午前中はなんだか元気がなかったように見えたリナちゃんも、すっかり元気になっていた。
 私は彼女についていき、倒れた木の傍までやってきた。
「ちょっと待っててな。枝落とすから。」
 皆の先陣を切って働く晶さんは、細い枝をナイフで、太い枝はノコギリで切り落としていく。
 やがて、一本の丸太になった木を、四人で手分けして持ち上げる。
 そこまで大きな木ではないので四人で大丈夫だと思うが、一人一人に掛かる負荷は大きい。
「よいっしょ、っと。」
 負担の多い後ろ側を、軽々と持ち上げる晶さん。
 私とアスカちゃんとリナちゃんで、それぞれ三箇所を持ち上げる。
「うー、重い〜…」
 口には出さなかったが、内心アスカちゃんの言葉に同意だった。
 箸より重たいものは…というのはオーバーだけど、今まで生活していて、重たいものを持つ必要なんて殆どなかった。
「皆、大丈夫か?行くぞ〜」
 晶さんの合図で、私達はゆっくり歩き出す。
 ―――腕が、キリキリと痛む。
「舞ちゃん、ダイジョブか?」
 後ろから晶さんの声が掛かる。
「は、はい…!」
 なんとか返事を返すが、運ぶだけで精一杯だった。
 ――…。
 ようやく運び終えて、私は、大きくため息をついた。
 これからまた、何度かの往復。
 こんなにきついことをまだ何度も何度も繰り返さなければならないのかと思うと、この場から逃げ出したいとすら思った。
 こんな仕事、初めてで―――。
 私は、歌を歌って、笑顔を振りまいていれば、お金が貰えた。皆、誉めてくれた。
 勿論、歌唱指導や演技指導で叱られたことはあるけど、元々歌うことや演じることが好きだから、苦にならなかった。私はあの仕事、好きだから。
 だけど、ここは今まで私が経験してきたことなんて、何も役に立たない。
 歌が上手くたって、演技が上手くたって、何の意味もない。
 ここは、そんな生易しい場所じゃない。
 自分達の力で、生き抜いていかなきゃいけない―――。
 娯楽の上で成り立っていた私にとって、こんな生死を掛けた場所、重たすぎる。
 苦しい、けど―――
「桜木さん、もう一頑張りですよ!」
 そう、笑顔で声を掛けてくれるアスカちゃん。他の皆も、よく気を使って声を掛けてくれる。
 彼女達だって、細い腕で頑張っているんだから。
 私と同じように、きつい思いをしているんだから。
 頑張ら、なくちゃ……。





「こらぁ!!!」
 その人物を発見してしばらく観察した後、あたし―――真宮寺芹華―――は声を張り上げた。
「うわあ!?」
 ビックリ顔で振り向いたのは、砂浜にしゃがみこんで楽しそうに口ずさみながら、なにやら行っていたらしい、かのん嬢。
「みーんな働いてる時に、なにをやっとるのかね君は。」
 別に怒ってるわけじゃない。寛大なあたしはジョークのニュアンスも含めつつ言う。かのんは「てへへ」とバツが悪そうに笑いながら、
「ごめーん。お絵描きしてたの。見て見て!」
 と、砂のついた手で手招きする。
 あたしはかのんの足元を覗き込む。砂に描かれた人物像…っていうか女の子のイラスト。
 髪の長い女の子が描かれていた。可愛らしいお絵描きだなぁ、などと微笑ましい気持ちになる。
「舞ちゃん描いたんだ。似てないけど。えへへ。」
「あ、これ舞ちゃんかぁ。言われれば似てる。」
 あたしはかのんの隣にしゃがみこみ、お絵描きのほっぺたのところにちょんちょんと「〃」を書き加えて、照れ顔にしてみたりする。うん、ますます似てる。
「ボクね、舞ちゃんの歌好きなんだ。ボクのお母さんも好きだし。つい歌っちゃうよね。」
 と、かのんは舞ちゃんの歌を小さく口ずさみ、照れたように笑った。
「うん、わかる。可愛いよね、舞ちゃんの歌。…あ、でも知ってる?アルバム曲にしっとり系の歌も入ってるの。あたしはそっちの方が好きかなー。」
「アルバム?ボク持ってるよ。なんて曲?」
 あたしの言葉に、興味津々といった様子で尋ねてきた。へぇ、かのんって実は結構な舞ちゃんファンなわけだ。
「『砂の城』とか。あと、『キスで起こして』?あの辺好き。」
「あーもう芹華ってばわかってるー!ボクも好きー!!あーでも、しっとり系ならね、『Go Away』のカップリングの、『出さない手紙』!あれはかなりいいよぉっ!」
 …前言撤回。結構なじゃなくて、かなりの舞ちゃんファンかも。
 目を輝かせて言うかのんは、本当に嬉しそうなのだ。
「でも、かのんって舞ちゃんと話してるとこ、あんま見ないよね。」
 ふと浮かんだ疑問をかのんに言うと、かのんはボッと顔を赤らめて、少し俯く。
「うー…。だって、恥ずかしいよぉ。話すなんてとんでもない、っていうかー…」
 と、気恥ずかしそうに言うかのん。
 おぉ、なんだか純情な乙女心を垣間見た。
「でも、舞ちゃんいい子だよ。すごい優しいし。今度話し掛けてみなって。お近づきになれるかもよ。ね?」
 と、あたしは子犬のようなかのんを撫で撫でしつつ言った。
「う〜…でも〜〜…舞ちゃんって、ほら、高嶺の花?とかそんな感じだしぃ…」
 かのんは赤くなって、砂にのの字を書いている。
 本当にのの字書いてる人、初めて見た。
「私がどうかしました?」
 と、突然背後から掛かった声。
「うわあっっ!!!?」
 目を丸くして、砂浜にペタンと尻餅をつくかのん。
 あたしは掛けられた声よりも、かのんのリアクションにビックリした。
 不思議そうにパチパチと瞬きしているのは、そう、たった今話していたその人、桜木舞嬢だった。ナイスタイミング!
「あのねー、舞ちゃん。かのんが…」
「わー!わー!わー!な、なんでもない!なんでもないよ!!」
 後ろ手でラクガキを消しつつ、あたしの言葉を必死で遮ろうとするかのん。
 いやー、可愛すぎる乙女心である。
「わ、わ、あ、あ、あの、ボクお仕事手伝ってくるー!」
 かのんはしどろもどろになりながら言って、ガバッと立ち上がり、バビューンと走って行ってしまった。かのんの足が漫画の如く渦を巻いているように見えるのはあたしの目の錯覚だろうか。
「…あ、あれ?私、お邪魔でした?」
 小首を傾げて言う舞ちゃんに、クフフ、とあたしは小さく含み笑いを漏らす。
「大丈夫大丈夫。乙女心を察してあげなさい。」
「は?…あ、はい。」
 舞ちゃんはよくわかっていないようだが、まぁここでかのんが舞ちゃんの大ファンだということを暴露するのも面白くない。本人の頑張りに期待しよう。
「さって。あたしもお仕事手伝って来ようかな。」
 と立ち上がり、はて、と舞ちゃんを見遣る。
 かのんが消えていった方向を見つめていた舞ちゃんは、ふっと目線を落とした。
「―――どうしたの?何かあった?」
 彼女に微かに漂う哀愁に、あたしはそう声を掛けた。
「…い、いえ、なんでもありません。」
 小さくかぶりを振って、微笑を浮かべる彼女。
 さすが女優だけあり、彼女の微笑みは完璧だ。
 ―――けど、あたしはその微笑みという仮面を被り、人を欺く人間を知っていた。
 愛してるなんて口にしながら、偽りの仮面を被っていた女を。
 彼女の傍に長いこと居たあたしは、随分目が肥えてしまっているわけだ。
「何か悩みでもあるんだったら、あたしで良かったら相談乗るからね?」
 あたしがそう言うと、舞ちゃんはきょとんとした表情を浮かべた。
 その後、また微笑んで、
「…はい。」
 小さく頷いてくれたので、あたしも一つ頷き返した。
 口元に笑みをたたえたまま、静かに海を見遣る彼女を少し眺めた後、あたしは仕事中の皆の元へ戻るべく、海とは逆の方向に足を踏み出した。
 その時だった。
「ま、待って…下さい。」
 きゅっ、と手首を掴まれ、そう掛けられた声に振り向く。
 そこには、悲しげな表情を浮かべる舞ちゃんの姿があった。
 おそらくそれは、彼女の本音の顔―――だろう。
 そんな表情を見せてくれた舞ちゃんに小さな喜びを感じ、あたしは少し笑って彼女に向き直る。
「どした?」
 そう声を掛けると、彼女は少しの間俯いて黙り込んだ後、目線だけをあたしに遣り、小さく言った。
「…あの、少しお時間頂いても…いいですか?」





 ここでの仕事の愚痴を一通り零し終えた私―――桜木舞―――は、小さく息をついた。
 太陽の落ちかけた夕刻、焚き火の傍で、二人。
 私の愚痴を嫌な顔一つせずに聞いてくれた芹華さんに、今は感謝の気持ちでいっぱいだった。
 こうやって話すと、楽になる。旅行に出る前、その相手は母親だったけど、この場所でそんな愚痴を零せる相手なんて今まで居なかった。皆の前でも私は、アイドルの桜木舞だったから。
「よし、よく話した!…実はあたしもね、ちょっとめんどいなーって思ってた。遊夢も晶も張り切りすぎだよねー。」
 芹華さんが笑いながら言うので、私も小さく笑う。
 同意してくれて、嬉しい。怒らないでくれて、嬉しい。
「無理しなくていいよ。…自然体でいい。そんな舞ちゃんのこと、受け入れてくれるはずだから。少なくとも、あたしは絶対受け入れるよ。」
 彼女の言う言葉に、ふっと涙腺が緩くなる。じわりと湧いてきた涙を、私は指先でそっと拭った。
 無理しなくていい。それは仕事の面でもだろうし…そして、アイドルを演じることに関しても、なんだろうな、って思った。
 自分を演じることは、苦しい。
 私が辛かったのは、力仕事だけじゃなく、常に皆の前で演じていなければならなかったから、なのかもしれない。
「ありがとうございます、芹華さん。…感謝、しています。」
 もっともっとこの気持ちを伝えたかったけど、他に言葉が見つからなかった。
 私の言葉に芹華さんは笑って、
「あたしも実は感謝してるのよ?そうやって愚痴ってくれて、すっごい嬉しいから。」
 などと、更に涙腺を緩ませるようなことを言う。
 湧いた涙をすぐに拭っても間に合わず、ポロポロと頬を伝っていく。
「…よしよし。いい子いい子。」
 芹華さんは子供をあやすように言って、私の肩を撫でてくれた。
 私はしばらく泣いて、その間芹華さんはじっと黙って、撫で続けていてくれた。
 嬉しかった。
 ようやく涙も乾いた頃、私はふと芹華さんを見た。
 すると目が合い、私はなんだか恥ずかしくなって目線を逸らす。
「…あの、一つ質問していい?」
 芹華さんから掛かった言葉に、私は再び彼女を見遣った。目線が合うと、芹華さんは小さく笑み、言葉を続けた。
「えっと、舞ちゃんってさ、恋人とかいないの?」
「…恋人、ですか?」
 突然の問いかけに、ドキッとした。
 私は小さく首を振って、
「今は居ません…。」
 と答えた。私の恋愛話は、インタビューでもファンの子からの質問でも最大のご法度。もし居ても、絶対に居ないと答えなければならない。だけど今は、本当の本当に居ない。
「そっか。…いや、舞ちゃんの心の拠り所って、どこだったのかなって思ってね。変なこと聞いてごめんね。」
 そう説明してくれた芹華さんに、内心ほっとしていた。今恋人がいるか?そう問われるのは、私はあまり好きではない。私はいつも、どうしてそんなことが知りたいんだろうと思うから。それは、雑誌の売上向上のため?視聴率のため?噂を流したいから?
 でも、芹華さんは違う。私のことを思って、そう尋ねてくれたのだと解ったから。
「私の心の拠り所は、母親です。…私、恋人にも、あんまり心を開けないから。沢山試してみたけど…全部、ダメでした。」
「そうなんだ。舞ちゃんの心の拠り所があるんならいいや。…あ、っていうか、…沢山試した、って…?」
 ギクッ。
 思わず零してしまった言葉を思い切り差されて、少し後悔した。
 …けれど、芹華さんになら話してもいいのかな。母親にも話したことのない、私の秘密。
「あ、ごめん、いやだったら話さなくてもいいよ。」
 と、気遣ってくれる芹華さん。その言葉に、益々彼女に心を開いていく自分を感じた。
「…お話、します。いいですか?」
 ちょっとドキドキしながら、彼女に確認する。
「ん、勿論。外部には漏らしません。」
 と口元を押さえて小さく笑う芹華さんに、私も少し笑った。
 そして一つ深呼吸して、私は話し始めた。
「……私、実は今まで色んな男性と付き合ってきたんです。本当にこっそり。…週刊誌なんかで、『恋人疑惑?』って書かれてた人、実は全部事実だったりするんですよ。」
「…ま、マジっすか?…じゃあ、あの若手映画監督とか、ジャーニーズの…」
「松井くん。若手映画監督って言ったら、坪倉さん?」
 私が実際名前を出すと、彼女は呆気にとられた様子で私を見つめた後、コクンと小さく頷いた。
 そんな様子が可笑しくて、少し笑う。
 彼女の表情がなんだか楽しくて、私が更にいくつかの名前を出すと、期待通り驚いてくれた。
「ふふっ、全部全部、実際付き合ってました。…簡単でしたよ。少し色目使ったら、すぐ引っかかってくれるんです。」
「…そ…そりゃ、ねぇ。あたしでも舞ちゃんに色目なんか使われたらホイホイついてくよ。」
 なんて、そんな冗談を言って小さく笑う芹華さんに、私も一緒に笑った。
 …本当に、簡単だった。
「でも、彼らに満たされることはありませんでした。…当然ですよね、彼らが好きになったのはアイドルとしての桜木舞。だから私は、彼らの前ではアイドルでしか在れなかったんです。そんな感情で癒されるはずないですよね。」
 …そうとわかっていても、恋人を作ってしまうのは何故なんだろう。
 満たされない。だから満たされたい。そんな欲求が勝ってしまうから、だろうか。
「……芹華さんが相手なら、もっと素敵な恋愛できたかもしれないのに。」
 なんて冗談を言って微笑する。でも本当に、芹華さんが男性だったら良かった。
 …そしたら私は、ありのままの自分を受け入れてくれる恋人に出会えたかもしれないのに。
「………それ、口説き文句に聞こえて怖い。」
 意外な芹華さんの言葉に、私は少し驚いた。笑いながら言ったのならまだわかる。だけど、彼女は少し俯いて、ポツリと零したのだ。…怖い、って?
「舞ちゃん、あたしの前ではそういうのは慎むようにっ。……照れるし、不覚にもときめいてしまうから。」
 そう、私から目線を逸らして言う芹華さんの頬が赤いのは、焚き火に照らされているせいだけではないのかもしれない。
 …なーんて、そんなことに気づいて、思わず私まで赤くなってしまう。
 それから少し、沈黙が続いた。
 芹華さん黙ってるし、私も言葉が見つけられなかった。芹華さんがあんなこと言うから…。
 そっと、彼女の顔を見遣った。
 焚き火に照らされた顔、少しして、ふっと目線がこちらを向いた。
 一瞬視線が交差した後、先にそれを外したのは芹華さんだった。
 照れくさそうに、恥ずかしそうに。
 目のやり場に困ったように焚き火を見つめる彼女の横顔を見つめていた。
 …どうして、そんな表情するんだろう、って。不思議だった。
 こんな反応、他の人でも何度か見たことがある。
 私が甘い言葉を囁いた時、それに慣れていない男性は、気恥ずかしそうに目線を逸らした。
 …それに、よく似ている。
 でも、どうして……。
「せーりかさん。…舞さんも。二人とも、どうしたんですか?」
 横から掛かった声に、顔を上げた。悠祈さんだった。
 彼女はやわらかく微笑むと、
「晩御飯の準備、そろそろ始まります。行きましょう?」
 と言いながら、ごく自然に、芹華さんの傍に歩み寄り、その肩に手を置いた。
「…うん。」
 芹華さんは彼女に向けて小さく笑むと、静かに立ち上がった。
 なんだか不思議に思って、二人のやりとりを見つめていた。
「舞ちゃんも、一緒に行く?」
 と芹華さんに声を掛けられたので、私は小さく首を横に振って、
「いえ。…後から行きます。」
 そう答えると、芹華さんは一つ頷き、
「じゃ、お先に。…また何かあったらおいで。」
 と微笑んで、悠祈さんと一緒に歩き出した。
 二人の後ろ姿を、じっと見つめていた。
 ふっと、悠祈さんの手が芹華さんの手に触れた。
 その時、芹華さんが一瞬こちらを振り向いたような気がしたので、私は慌てて目を逸らす。
 ……少しして、もう一度二人に目を遣った。
「…!」
 二人の姿が目に入って、すぐに見えなくなった。
 ……ほんの一秒程しか見えなかった。だけどこの目に焼きついた光景。
 二人は、まるで恋人のようにその手を握り合っていた。
 ただ合わせるだけじゃなく、指と指を絡ませて。
 それが間違いないと言い切れるほどに、鮮烈に脳裏に焼きついていた。
 恋人のような二人。
 恋人のような…。
「………恋人、なの…?」
 私の小さな問いかけは、静かに、波音に掻き消されていた。





『今日の俺様。今更ではあるが、この俺様はいわゆる独身貴族というやつだ。貴族か。俺様にピッタリだ。そんな俺様に言い寄る女は数多い。今日、俺様が街を歩いていると、女に声を掛けられた。「よろしくおねがいしまーす。」などと言いながら、俺様にポケットティッシュを差し出したのだ。初対面にも関わらず、突然のプレゼント。女の笑顔に、俺様は立ち止まってやった。しかしすぐに思い直し、俺様はすぐに女を無視して立ち去った。危ういところだった。あれは新手のナンパだろうか。しかし、ナンパなどする女にロクな奴はいないに決まっている。そう思って、俺様は女を無視し早々に歩き去ったのだ。その判断は正しかった。ふと振り返ると、女はまた同じように笑顔を浮かべ、他の男にも俺と同じようにポケットティッシュを差し出していたのだ。あのような軽い女、やはり俺様が相手にすべきではないな。けれどまぁ折角貰ったのだ。このポケットティッシュは有意義に使ってやろう。フッ、今日も一人の女からの誘惑を見事耐え抜き、一人身を貫く俺様。最高だぜ。』

 文の所々にキラリと光るセンス。
 見事なまでのナルシズム。
 究極の世間知らず。
 あたし―――國府田花火―――は、ノートを閉じてポツリと呟いた。
「…バカだ」
 そう。この俺様なる人物、この世で究極のバカだ。間違いない。
 このあたしが言うんだから間違いないのである。
 思わずこんなノート焚き火にくべてしまおうか、などと考えたりもするのだが、まぁこいつもいっぱしに人権もってるわけだし、残しといてやりますか。さすがは國府田様。最高だぜ、フッ…みたいな。
「そいつ、バカだよな」
 横からあたしと同じ意見を述べてきたのは、晶だった。
 あたしは深ーく頷き返し、
「バカだね」
 と同意した。
「ノートやら機材入れやらは救命ボートに残しといて、なんで本人は乗ってないんだか。……ったく、本当バカだよ」
 そう晶の零した言葉に、晶の言うバカが、あたしの思うバカとはニュアンスが違うことに気づく。
 …まぁ、確かにその通りではある、かな。
 存在しているのがこのノートだけだということもあり、このノート=俺様みたいなイメージで考えていたあたしは、その本人があのボートに乗っていた可能性というものを失念していた。
 そう考えると、この男、死んじゃったのかなって…なんだか愁傷な気持ちになってしまう。
 ふと、あたしはそんなネガティブな思考じゃだめだと思い直した。
「―――多分生きてるでしょ。こんな心臓に毛が生えてそうな男なんだし」
「……」
 いつもにない真剣な表情を見せる晶は、ゆっくりとした動作であたしが今座っている流木に、あたしの隣に腰を下ろした。晶はあたしからノートを取って、空白になる直前の最後の一文を凝視する。
「……事が尋常じゃないっつーことは、そろそろ自覚して来てもいいと思うぜ」
「どういうこと?」
 小さく問い返すと、晶はパタンとノートを閉じて、すっとその双眸を伏せた。
「ここはおそらく無人島。あたし達は自給自足の生活を強いられている。芹華が毒蛇にやられた件に関しても、この島に猛獣が他にも潜んでいる可能性があるよな。それに日本にはない疫病が発生することも――」
「わかってるわよ。わかってる。それはきっと皆理解してると思う」
 晶の言葉に同意するように頷きながら返すと、晶はふっと弱い笑みであたしを見遣った。
「ついでに言うぜ?……あたしは芹華の正体を知っちまってる。あいつの過去。そう、あいつは……」
「殺人を犯したことがある、ね。……晶、だけどその経緯まで明らかになってるわけじゃない。芹華には何か理由があったのかもしれない。殺さなければならない、理由が。あたしは、芹華を信じている」
 声を潜めて言うと、晶は微苦笑を浮かべ「そうか」と肩を竦めた。
「あたしは芹華を完全に信頼出来るとは言えない。けどあいつが何かの鍵を握っているようには思えてる」
「……そうね。それは否定しない」
 自己中だけど、皆を引っ張るリーダー質な部分。
 彼女の心の中に閉ざされた過去。
 色んなことを含め、芹華は何かの鍵を握った少女だと思っている。
「まぁ芹華のことはいいとして、だ。今後の皆の身の安保が最重要課題だと、あたしは思ってんだ。だから、舞達にも辛い思いさせてんのも解ってる。だけど遊夢と力を合わせてログハウスさえ作る事が出来れば、あたし達はまた安全に一歩近づく。そうだろ?ねぇさん」
 芹華の話からは打って変わって、また別の雰囲気を纏った真摯な表情で告げる晶に、あたしは頷いた。
「その辺は晶達を頼りにしてるわよ。頼むわよ?大工屋さん?」
「大工はいいけど、あのナルシストと一緒にすんじゃねーぞ」
 そんなことを言って、二人で少し笑った。
 晶との会話で、改めて今あたし達が極めて困難で、窮地に立たされていることは理解した。
 だけどどんな窮地に立ったって諦めない強い眼差し。それは芹華にも晶にも共通するものだ。
 あたしも、見習わなきゃいけないね。
 そして翌日からまたあたし達は、ログハウス作りや島の探索、それぞれの任務に当たっていく。
 どんな困難にも負けない、強い心を携えて。
 あたし達の最終目標は、生きて、日本に帰ることだ。












以下、執筆中―――。











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