ザザ… ザァッ… 「夜の海に立ち…。」 甲板から広がる景色は、どこまでも黒い夜の海。 夜と、海と、闇の見分けすらつかない。 そんな、黒い海を、あたしは見つめていた。 こういう景色、あたしは凄く、好きなのである。 この景色が見れただけでも、このツアーに参加して良かったかなって、思ったりする。 太平洋をゆっくりと進む、大きなお船。 南の島へ向かう、ちょっとしたリゾート。 …リゾート、か。そんな風に言ってみると、ちょっと気が利いた感じもするが、実の所は「豪華客船で行く、女性限定格安ツアー」という、仰仰しいチラシがこの旅の始まり。 豪華客船というのは、事実ではあるが、煌びやかな美しい豪華客船とはちょっと違う。 年季の入った、悪く言えばボロっちい豪華客船なのである。 ま、それ故にツアーのお値段もお手ごろで、貧乏フリーターなあたしでも、こうやって参加できちゃったワケだが。 目的地の南の島よりも、この船でのんびりすることがメインのツアーといったところか。 実際、目的地の滞在期間よりも、行き返りの時間の方が多いしね。 そういう、あまり一般受けしそうにないツアー内容のせいか、ツアー客もまばらのような気がする。まばら、っていうよりも、一人旅の人が多いのかな。そういうあたしも、一人旅なワケだけど。 こんな、海の上をぷかぷかと進むだけの船の中で、たった一人で退屈じゃないかって思われるかもしれないけど、あたし的には、退屈してない。 一人でぼんやりする時間は、現代人の忘れ物。 そういうのを取り戻すためにこの船に乗っかったのは、正解だったと思う。 あ、それに、ずっと一人ぼっちってわけでもないし。 今日で、この船旅が始まって三日目なんだけど、他のツアー客の女の子とかと顔見知りになったりするし、ね。 「お客様。…真宮寺様で御座いますか。」 後ろから掛かった声に、あたしは振り向き、 「ハイ、そうですけど。」 と答えた。 あたしの名を呼んだのは、白い制服に身を包んだ乗務員のオニイサンだった。 「すみません、夕食の時に聞き忘れてしまったもので。明日の朝食はいかがなさいますか。」 「あぁ、えっと…洋食、で。お願いします。」 「はい、わかりました。失礼致しました。」 乗務員さんはペコリと頭を下げ、そそくさと歩いていった。 あたしはその後ろ姿を眺めながら、小さく笑った。 真宮寺サマ…だって。あはは。様付けで呼ばれることなんて、普通ないもんねぇ。 ―――改めまして、あたしの名前は、真宮寺芹華(しんぐうじ せりか)と申します。 東京でフリーターなどやりつつ、己の生き方模索中の十九歳。只今恋人募集中♪ で、フリーターとして接客やら事務やらこなしてるのはいいんだけど、ふと、あたし、自分が仕事人間になりつつあるのに気づいたの。たかがアルバイトのお仕事に人生懸けて何になるよ? というわけで、あたしは己を見つめ直す旅と称し、このツアーに参加したワケ。 その一環として、夜の海を見つめたりしていたんだけど、邪魔が入っちゃったな。 ま、いっか。今日の修行はお終い。 自室でのんびりしよ、っと。 ――――? その異変に目を覚ましたのは、尋常じゃない船の揺れだった。 あたし―――真宮寺芹華―――は、個室のベッドサイドテーブルに備え付けられたライトを点け、時計を見遣った。午前二時。 船は、グラグラと妙な揺れを起こしている。 何、これ…? 今まで三日間、こんな妙な、激しい揺れを感じたことはなかった。 妙な不安感から、あたしはベッドを出て、丸い小窓から外を見た。 外は相変わらず、暗い闇が広がっているばかり。 ―――いや、…雨? ザァザァと微かに聞こえる雨音と、小窓を打つ小さな水滴。 見た感じ、結構激しい雨のように見える。 雨が降っているとは言え… おかしい、よね、こんな揺れ。 さすがにこの揺れの中で寝直す気にはなれず、あたしは部屋を出て廊下に出た。 「あ…」 そこで出くわしたのは、顔見知りになっていた隣の部屋の女の子。 年齢はあたしよりも下であろう、黒髪ショートカットの可愛らしい女の子。 「ねぇ、すごい揺れだよね…大丈夫かな?」 一人でいるのは不安だったし、あたしは彼女に声を掛けた。 少女は小さく頷き、 「なんか、怖い感じ……萌ちゃんも、あ、一緒に来てる子なんだけど、その子も起こした方がいいかなぁ?」 と言う。あたしはその言葉に頷いて、 「そうだね。もしものことがあったらヤバいし…起こしておいでよ。」 と声を掛けると、 「う、うん。」 少女は小さく言って、部屋に駆け込んでいった。 あたしは廊下の壁に背をつけたまま、落ち着かず、きょろきょろと左右に伸びる廊下を見渡していた。ちらほらと、部屋から出て廊下の様子を見る人々の姿が映る。 その時だった。 廊下の向こうから駆けて来た、一人の乗務員の男性。 男性は躊躇いがちに客室のドアを見渡し、やがてあたしの傍にやってきた。 「あの、この揺れ、大丈夫ですか?」 あたしは彼に問い掛けた。乗務員はしばし口篭った後、 「―――申し訳ありません、その、船が浅瀬で座礁したようで…只今、最善を尽くしておりますので、もうしばらくお待ち下さい。」 と、言う。あたしはその言葉に眉を顰めた。 「座礁?……大丈夫なんですか?」 あたしが問い掛けると、乗務員は険しい表情のまま、 「…わかりません。申し訳ありません。」 と、小さく言った。 ――嘘、でしょ…。 そんな話をしていた時、隣の部屋から先ほどの少女と、もう一人寝ぼけ眼の少女が出てきた。 「なにぃ……こんな夜中に、どしたのぉ…?」 柔らかそうな茶髪が寝癖で跳ねていて、目も完全に開ききってない様子の少女は、不思議そうにあたしや乗務員を見て、首をかしげる。 「――申し訳ありません。しばらく、待機を…」 乗務員が言いかけた時だった。 グラッ――と、船が大きく揺れた。 「っ!」 あたしは壁に押し付けられるようになり、そのまま座り込む。 「うわぁっ!」 二人の少女も、乗務員もバランスを崩し、廊下で踏鞴を踏む。 ようやく、事の重大さが見えてきた。 揺れが収まったところで、あたしは廊下を駆け出した。 こんな状況下で、じっとしてろってのは、あたしには聞けない注文だ。 バン! 船の甲板に出て、激しい雷雨に目を細める。 強い雨、というよりも―――嵐。 その時また強い揺れが襲い、あたしは慌ててドアノブに掴まって耐える。 グラッ… 「うっ…!?」 今度の揺れは、揺れ、と言うよりも――― 船自体が傾き、斜めになる。 そして、重力を、感じる。 なによ、これ。嘘でしょ。まさか、そんな――! ――落ちる!! 船自体が、静かに、海の底に沈んでいく感覚。 ど、どうすれば、いいの…!? 冷静に考えて、この船に残っていれば一緒に沈んでしまうのは目に見えている。 とすれば、他に、この海の上で生き残る方法は… ――――そんなの、あるの!? 甲板の上で、雨に打たれながら、沈んでいく船を、感じる。 生き残る、術は…… ザァァッッ!!!! !? 刹那、大きな気配に振り向いた。 そこには、 ――巨大な、水の塊が… 津波が、この巨大な船を、飲み込もうとしていた。 こんなところで、終わりたくなんか……ないよ――!! 「っ…!!」 重い塩水が、あたしに叩きつけ、そして、空気を奪っていく。 水に飲み込まれたあたしは、あまりに、無力だった。 混沌としていく意識の中、生を祈ることしか、出来なかった。 ――――…… 「…きてや…、……起きろー!!」 ふと。 混濁した意識の中に入り込んできた声音に、あたしは眉を顰める。 もう少し寝かせてよ…。 ――って…、あれ…? 「…っ?」 あたしは、今までの経緯をふと思い出し、慌てて目を開けた。 「あ、起きた?大丈夫?」 目を開いた瞬間、真っ青の空が飛び込んできた。 そしてすぐに、ひょこんと顔を出した女性。 眼鏡を掛けた、見たことの無い、女の人。 「あ、…あたし……?」 状況が理解できず、女性に問う。 身体を起こそうと思ったが、自分の身体ではないように、重い。 仕方なくあたしはその場に身体を横たえたまま、女性を見上げる。 「浜辺で気絶しとったんや。うちもそうなんやけど。もしかしてあんたも、アレか?あの、豪華客船の?」 「豪華、客船――?」 その言葉に、思わず身体をガバッと起こしていた。 上半身を起こして、ズキンと響く頭痛に、あたしはこめかみを押さえる。 「無理せん方がええよ。うちもちょっと風邪気味やねん。海ん中、どんくらい流されたかわからんけど。」 あたしの隣に座り込んでいる眼鏡の女性は、そう言って苦笑する。 改めて辺りを見渡すと、あたしが今寝そべっているのは浜辺から程近い草むらで、傍に海。海は果てしなく広がり、水平線がくっきり見えた。そして陸地側は、延々と続く森――。 「…ここ、どこ?」 あたしは女性に小さく問う。 「そんなん、こっちが聞きたいで。多分、どっかの島なんやろけど、さっぱりわからへん。」 「島…?じゃあ、何、あたし……、…助かったの?」 女性にそう尋ねると、今更といった顔で、 「当たり前やん。ここ、天国やないと思うで。あの船から投げ出されたんは覚えてるんや。せやから、海ん中流されて、ここに流れ着いたと思うんが普通やろな。あんたもあの船に乗っとった人やろ?」 と言う彼女の言葉で、ようやく状況が理解できた。 「そっか…あ、そう、あたしもあの船に乗ってたの。あたし、真宮寺芹華。」 一つ頷いた後、簡単に自己紹介。 「芹華か。うちは、如月唯奈(きさらぎ ゆいな)言います。ま、これもなんかの縁やろうて、とりあえず宜しくな。」 と、唯奈と名乗った女性は言った。そう言えば、この人関西弁だ。 眼鏡に、茶髪のショートカット。こざっぱりした印象を受ける。同い年くらい、かな。 「あたし、十九なんだけど…そっちはいくつ?」 「あ、タメやで。うちも十九。なら呼び捨てさせてもろてもええかな?」 「うん、いいよ。じゃ、あたしも唯奈って呼ぶ。」 「うん。」 とりあえず打ち解けたところで、あたしは改めて辺りを眺めた。 あたしと唯奈以外、人の気配はないように思える。 そう言えば、さっき唯奈が島かもって言ってたけど、どこの島なんだろ。 家でもあれば、泊めてもらいたいんだけど。 「どっか、人探した方がいいかなぁ。あ、でも言葉通じないか?」 あたしが暢気に言うと、唯奈はふっと表情を曇らせた。 「それなんやけどな……さっき、ちょっとウロウロしてみてんけど、どこにも人がおる感じがせぇへんねん。まさか、とは思うけど…。」 「え…?」 「……無人島、やったりして。」 「……。」 唯奈の言葉に、あたしは思わず黙り込んでしまう。 確かに…その可能性は否定できない。 あたしと唯奈は、沈痛な雰囲気で黙り込んでしまう。 その時だった。 ガサガサっ。 森の方の茂みが、小さく揺れる音。 「…?」 「……。」 あたしと唯奈に、緊張が走る。 よく考えれば、ここは異国の地。 もしかしたら、猛獣とか、いたり、して―――。 そんな危惧もありつつも、やっぱり気になり、あたしは静かに立ち上がってその茂みに向かった。 「せ、芹華…。」 不安げな唯奈の声が背後から聞こえるが、やっぱりここは確認すべきだ。 あたしはそっと茂みに近づき、覗き込んだ。 「わっ!!?」 「え…!?」 突然上がった可愛らしい少女の声と、茂みの向こうにあった少女の姿に、あたしも驚いて声を上げていた。 少女――少し年下くらい、だろうか。 高級そうなブラウスとスカートに身を包んだ、おとなしそうな可愛い女の子。 「あ、あ、あの、えっと…」 あたしの姿を見上げて不安げに表情を曇らせ、少女は言った。 「げ、原住民の方ですか…!?」 「…は?」 その言葉に、思わず聞き返す。 原住民って…日本人然としたあたしのどこをどう見れば原住民に見えるのか。 「あ、あぅ…。」 涙目になってあたしを見上げる少女の姿に、小さく笑った。 「原住民じゃないよ。あなたも、あの船に乗ってたの?」 優しく声をかけてあげると、少女は目の端に浮かんだ涙を拭い、 「あ、は、はい、そうです…あの、えっと……」 と、しどろもどろになりながら頷く。 可愛い子だなぁ。 へたり込んで、腰でも抜けていそうな様子なので、あたしはそっと少女に手を差し伸べた。 少女はきょとんとしてあたしの手を見つめた後、ふっと微笑んで、その手を取ってくれた。 …その微笑みの、ドキッとするあたしがいた。 か、かわいい〜。 立ち上がり、少女は一つ礼をした。 「あの、大変なご無礼、申し訳ありませんでした。…お気遣い、感謝致します。」 まだ幼げな口調だが、その言葉に迷いがなく、教養のある子なのだとわかった。 一般ピープルで会話に“致します”を交えることの出来る子なんて、滅多にいないだろう。 その服装や物腰を取っても、お嬢様といった雰囲気である。 「あたしは、真宮寺芹華っていうんだけど…名前、教えてくれる?」 あたしがそう言うと、少女は随分落ち着きを取り戻した様子で、微笑んで頷き、 「はい。私、鳳凰寺楓(ほうおうじ かえで)と申します。」 と答えてくれた。鳳凰寺、かぁ。名前からしてお金持ちっぽいよねぇ。お寺? 「なんや、女の子やったんかいな。あーむっちゃドキドキしたぁ。」 後ろからひょっこりやってきた唯奈に、あたしと楓ちゃんは少し笑った。 そして、二人の顔を交互に見遣り、あたしは言った。 「まずは、他の漂流者、探そっか。」 「あ〜ん……もぉ…。」 深い深い森の中。 木々の隙間から差し込むお日様も、少し頼りない。 森には道などなく、私は木の枝に引っかかれたりして、もうボロボロになりながら歩いていた。 あぁ、肩のところ破れちゃってる。このアンサンブル、高かったのに…。 今更になって…少し後悔する。 私――こと、悠祈 純(ゆうき じゅん)は、つい何時間前までは、優雅に豪華客船で一人旅を満喫していたはずだった。なのに…何故、こんな森の中を彷徨っているのだろう。あぁ、もうわけがわからない。 船が沈没しちゃって、でもあのロマンス映画のように手を差し伸べてくれる人も居なくて。 浜辺に打ち上げられていたみたいで、しばらくその場で戸惑っていたんだけど、誰か住んでいないかと思って森の中に入ってきた。だけど、行けども家など一軒もないし、それどころか人が住んでいる気配すら微塵もない。 途中で引き返せば良かったのに――。 もう、海がある方向すらわからなくなってしまった。どうしよう。私、このままこんな辺境の地で餓死なんて耐えられない。 都会っ子の私の足は、この荒れた道を歩くにはか弱すぎる。 「はぁ…。」 一つため息ついて、私はその場に座り込んだ。 どうして、こんなことになってしまったの。 情けなくて、不安で、ポロポロと涙が零れる。 死ぬなんていや…。 ずっとずっと良い子の振りをして生きてきて、ようやく成人を迎えたのに。 せっかく、自由になれたのに―――。 「と、とにかく、だ。ここは生き延びただけでもラッキーなんだし、な?だから、ほら!もっと希望を持つべき、っていうか。誰か住んでるかもしれないだろっ!?」 …と、熱弁する彼女の姿に、私は少し安堵する。 彼女が熱弁してくれるのは、私のため。 私が弱気になって泣いてばかりだから、明るく振舞ってくれた。 ボーイッシュな外見で、身長も高い。私より一つ年上の十八歳、男の子のような女の子。 名前は、福智 晶(ふくち あきら)さん。 「見えます。大勢の女性が、彷徨い、困惑しています。……でも、大丈夫ですよ!後々、その人たちと出会うことになるんだと思いますから!」 何もない斜め上を見つめ、少女はポツリと言い、その後私に向けてニッコリ笑った。 彼女は、橘アスカ(たちばな あすか)さん。 十六歳で、神社の娘さん、巫女さんなんだって。今のは予言、らしい。 後ろに結った長い黒髪が綺麗な、日本人らしい女の子。 「ここに居ても、進展しない。…進むべきだと、思う。」 無表情に、クールにそう告げるのは、秋月遊夢(あきづき ゆうむ)さん。 十六歳なんだけど、なんだか子供っぽい雰囲気が全然なくて、クールな子。 かといって大人っぽいわけでもないんだけど…うん、すごくクールなの。 肩までの髪に、150センチくらいと思う小柄な体型。 「…ごめんなさい、皆さん。私、頑張ります。」 私は、励ましてくれる三人に頷き、微笑んだ。 そんな私を見て、晶さんが、 「うわ…生笑顔。クラっと来る、クラッと。」 と、頬を赤らめて言った。その言葉に、私は微苦笑する。 何故こんなことを言われるのかは、わかっている。今までもよく言われてきた。 それは私が、ブラウン管越しの人物だから。 私の名前は、桜木 舞(さくらぎ まい)。 この名前を知っている人は、全国に数多い。 私は、いわゆるアイドル、なのだ。 十七歳にして、日本中の人にその名を、その顔を知られている。 幼い頃から子役として芸能界に居たから、慣れているといえば慣れているけど、でも、ずっと慣れないような感じもする。 私は特別な存在―――そんな私が。 久々の長期オフだから、一人になりたいって思って船に乗って。 なのに、その船が沈没して――こんな、わけのわからない島に漂流したなんて。 だから、すごく不安で、私はこの三人に出会う前も、会った後も、ずっと涙が止まらなかった。 「さ、行こう!他にもあたしらみたいに流れ着いてる奴等いるだろうしな!」 でも、こんな明るい晶さんたちに励まされて、ようやく笑顔になれた。 ううん、正直言ってまだ不安。 だけど―――どうしようもないみたい。 だから、私、頑張る。 「ぷっはー!生き返る〜!」 顔を上げた芹華が、快い笑顔で言った。 うち―――如月唯奈―――は、そんな芹華の笑顔につられて笑う。 あ、この人めっちゃええ笑顔する人なんやな、って思うて。 「あ、あの…芹華さん?このお水、大丈夫ですか…?」 芹華の隣で不安げに言う楓ちゃん。この子、出で立ちからして、むっちゃエエトコのお嬢様なんやろなぁ。うちの眼鏡が確かならば、楓ちゃんのブラウスはシルクと見たで! 「あはは、そんな心配しなくたって大丈夫。人間ちょっとやそっとじゃ具合悪くなんないから。」 そう言って、芹華は再び水を掬い、口元に持って行く。 ここは、細い小川のそば。他の参加者を探すことんなって、森の中へ少し入ったところで発見した。 海のそばから、小高い山が見えとって、ここは微妙な山道。せやから、多分山から海に流れとる小川なんやと思う。 自称都会っ子なうちや、見るからにお嬢様な楓ちゃんは、確かに喉が乾いとるとは言え、こんな水を口にするのは抵抗あった。けど、芹華はそんなん全然気にせん人みたいで、「ラッキー!」とか言って、即行で水を口にした。 「…まぁ、芹華がそう言うならうちも。」 あっけらかんと水を嚥下していく芹華につられ、うちも両手に水を掬い、そっとそれを口に含んだ。 ――コクン。 あ、おいしい。 コクン。 コクン。 …ほんま、生き返る。 喉が渇いとったから、うちはゴクゴクと水を口にしていった。 「唯奈、そんなに飲むとお腹壊すよ?」 そんなうちを見て、芹華はポツリと言う。その言葉に思わず手を止め、 「え!?…芹華、大丈夫やって言うたやんか。」 と、不安になって言い返す。 すると芹華はケタケタと笑い、 「いや、水自体は大丈夫だろうけど、そんなにいっぱい飲んだら、普通の水道水でもお腹壊すって。」 と言う。 あ、そっか。久々の水に、つい夢中になってもうた。 「あ…おいしいです。」 うちらのやり取りを見て安心したのか、楓ちゃんも恐る恐る水を口にし、そう言った。 芹華はその言葉に満足顔で、 「ね。人間、慎重かつ大胆に生きなきゃ損するでしょ。」 と言う。大胆なんはええけど、芹華ってほんまに慎重なんか、怪しいトコやな。 そんな訝しげな思いで芹華を眺めていると、不意に芹華は、片手を小川につけ、パシャリと流れる水を弾いた。 「―――この小川があれば、ちょっとは命拾いするね。」 ふっと呟いた芹華の言葉に、うちは現実に引き戻されるような感覚を抱く。 「せやな。…あと、食べ物も必要やな。」 今から、どうなるんか。正直な所さっぱり予想出来ん。 そりゃ、一日二日で誰か探しに来てくれたり、この地の人間と会えたりしたらどんなにええか。 せやけど、最悪の場合、ずっと長い期間、ここにおらなあかんようになるかもしれへん。 ここが無人島の可能性だって否定できん。 とすれば…うちらは、自給自足の生活をしていかなあかんのや。 はっきり言って、自信はない。 けど―――。 まだ出逢って数時間やけど、この真宮寺芹華っちゅー女、何かやってくれそうな気ぃする。 芹華と一緒なら、なんとかなりそうな、そんな予感めいた思い。 「―――ん?何、あたしの顔に何かついてる?」 うちがぼんやり考えながら芹華の顔を眺めとったからか、芹華はきょとんとして言う。 そんな芹華に笑顔一つ浮かべ、 「なんでもないで。頑張ろな。」 と、決意を新たに言った。 芹華は小首を傾げた後、ニハリと笑んで、 「おうよ。一緒に日本、帰ろうね。」 と答えてくれた。 「あ、私も頑張ります!…あの、宜しくお願いします、ね?」 楓ちゃんもそう口を挟む。 うちは二人の顔を交互に見遣った後、 「うん。よろしくな♪」 と、ブイサインを作ってみせた。 「きゃー!助けて下さいぃ〜!!」 突然、足に絡まった妙な感触に、あたし――こと、田中リナは声を上げた。 「え?どうした?」 少し前を歩いていた女性が、クルリと振り向いて言う。 「あ、足がぁっ……。」 涙目になって言うと、彼女はテクテクと私の傍に来て、私の足元でなにやらごそごそ。 「なーんだ、蔦が絡まってるだけじゃないの。男ならこのくらいで泣くな!」 女性はあたしを見上げ、小さく笑って言う。 あ、なんだ、蔦が……。 「あ、あ、えっと…だ、だって気持ち悪かったんですっ!って、第一あたし、男じゃないですよぉ!」 なんだか恥ずかしくなって言い返すと、女性はケタケタと楽しそうに笑った。 その笑顔に、あたしも少し安心して、笑みを零す。 「ほら、行こ。」 女性はあたしの手を取って、また森の中を歩き出した。 なんだか、頼りになるお姉さんって感じだなぁ。 それに比べて、あたしは本当にドジでさっきからバカなことばっかりしてる。 つまずいたり、転んだり、―――って、要するにこけてばっかりいるんだけどね。 アスファルト育ちのあたしは、こんな山道歩いたことなんて殆どないんだもん。 あたしは、今年から短大に通う普通の十八歳。 平凡な家庭に生まれ、平凡な小中高校生活を過ごし、そしてまた平凡な短大に進学して。 身長も156センチと、平均的。髪の毛もありきたりな黒髪ロング。 そして名前も「田中リナ」と、普通だらけなのだ。自分で言ってて悲しいけど。 青春も人並み、かな。帰宅部で、友達とお喋りしながら帰ったりしてるうちに三年間過ぎちゃってた。成績も中の中。彼氏は一応居たことあるけど、キス止まり。 あ〜もう、なにもかもが普通でヤになっちゃう。 ―――なんて、ついこの間まで言ってたけど、今は違うみたい。 今も不思議。なんであたし、年上のお姉さんに連れられて、山道歩いてるの?って。 「どーした?そんな深刻そうな顔して。」 お姉さんはあたしを見遣り、言う。別に心配してるって感じでもないし、ひょうひょうとした人だなぁって思う。 「…なんであたし、こんなところに漂流してるのかなって。」 「あはは、そりゃあたしも同感。」 あっけらかんと笑顔を浮かべて言う。 あぁ緊張感のない人。 彼女の名前は、國府田(コウダ)さん。下の名前は教えてくれない。 24歳で、フリーターって言ってた。身長は160センチちょっとかな。あたしより少し高いくらい。 短めの髪で、両サイドだけ少し長い。なんだか可愛い髪形である。 名前からして個性的で…羨ましい。 「ま、なんとかなるって。そのうち人とも会えるだろうしね。そんな深刻な顔してないの!」 やっぱり緊張感のない口調で言う。 ―――でも、今はそっちの方が助かる。 「…そうですよね。ポジティブシンキングですよね!」 「そうそう♪」 あたしは彼女の笑顔に、一つ頷き返し、また黙々と歩を進めた。 一生平凡な人生でもいいから、あたし、日本に帰りたい。 「萌ちゃん!見て見て!」 「なぁにぃ〜??」 かのんちゃんが、萌を呼んでパタパタと手で招いてる。 あ、萌って言うのは、あたしの名前!皐月 萌(サツキモエ)っていうの! 可愛い名前でしょぉ〜★☆パパとママが萌える人だからとかでつけられたの。でも萌えるってどういう意味なのかなぁ??まいっか☆ かのんちゃんこと、弓内かのん(ユミウチカノン)ちゃんは、萌の中学校でのお友達! なんだけどぉ、萌もかのんちゃんも学校行ってないんだ。いわゆる「ふとーこー」ってやつ。 萌もかのんちゃんも中学三年生で、「ふりーすくーる」っていう所に一緒に通ってるの。 で、萌、かのんちゃんと旅行に行きたい!ってパパとママに行ったら、「ごうかきゃくせんの旅」に行ってみる?ってチラシ見せられて、それで来たんだけど、なんか遭難しちゃったみたい。 学校は本当は夏休み終わって始まっちゃってるんだけど、パパもママもそういうの気にしない人だから、こうやって旅行に来れたんだ☆あ、でも遭難しちゃってるんだよねぇ。あ、笑えないのかも!? まいっか。萌はかのんちゃんと一緒だから楽しいし♪ 「花が咲いてるの。こんな花見たことないよね?」 かのんちゃんが指差す先には、ちっこいカワイイ花がチョコナンと咲いていた。 「わ〜超カワイイ☆」 萌が言うと、かのんちゃんも嬉しそうに笑ってくれた。 「――ふぅん、お花が咲いてるんだぁ。」 萌とかのんちゃんの後ろからひょこんと覗き込んだのは、ここに流されて来てから知り合った、菜の花さんって言う人。哀元菜の花(アイモトナノハナ)さんって言うんだって。年は21歳で、なんだかほわほわした感じのカワイイお姉さん♪ 髪の毛は、萌よりも少し茶色っぽい茶髪で、ふわふわしててかわいいの。菜の花さんいわく、シュークリーム色だってぇ♪ あ、ちなみに、萌は菜の花さんよりももっと薄い茶髪で、二つ結びしてるの。で、かのんちゃんは黒髪のショートカット。萌はパパもママも元不良さんだから髪の毛染めるのとか超OKなんだけど、かのんちゃんのとこのパパママはそういうのダメなんだって。でもかのんちゃん自身も別に染めたくないって言ってたなぁ。染めたら絶対かわいいのに!…あ、でもかのんちゃんは黒髪もかわいいからいっかぁ。 「ねぇ、少し休んで行こっかぁ?私、疲れちゃったな。」 菜の花さんが、少し困ったように笑う。でも、萌は「ノンノン!」と指を左右に振った。 「だ〜め〜だ〜よ〜!人に会うまでがんばろぉ!」 「うん、がんばろ!」 萌の言葉に、かのんちゃんも賛成してくれる。 菜の花さんははうぅ〜と一つため息をついて、 「わかりましたぁ。がんばる。」 と苦笑した。 「じゃ!れっつごー!」 萌は言って、サクサクと歩き始める。 「あ、萌ちゃん、待ってよぉ!」 お花の傍に座り込んでいたかのんちゃんが、後ろから慌てて走って来た。 菜の花さんは少し離れて後ろから歩いてくる。 ほかにどんな人に会えるのかなぁ。ここに住んでる人とかいないかな?? あ、でも萌、英語喋れないや。 どーしよ!! 「帰れる。帰れない。帰れる。帰れない。帰れる。…帰れ、ない。」 最後の花びらを千切って、思わずため息をついた。 おまじないのようなものだけど、それにすら裏切られてしまうと、さすがの私も落ち込んでしまう。 倒れた木に腰掛けて、花びらのなくなった花を投げ捨てる。 その時、横から厳しい声がした。 「迷信です。そのようなものに頼るよりも、自らの足で他の漂流者を探すことが先決だと思います。」 シャンと伸びたその背筋。スラリとした身長。私と同じくらいの背丈だが、彼女は妙に肩肘を張っている感があり、私よりも高く見える。キレイな長髪は、背中の中ほどまである。そして厚い眼鏡と、鋭い眼光。 彼女と会ってかれこれ五時間程経つが、それで解ったことは、彼女がとても厳しい人物だと言うこと。十九歳と言っていたが、まだ十代とは思えぬその雰囲気に少し圧倒される。 「……そうね。じゃあ、歩きましょうか。」 私は彼女に返す反論も特になく、素直に立ち上がった。こういう頭の固そうな人間には、素直に従っておくのが懸命だ。 「…ですが、疲労も蓄積するのも良くはありません。体調の方は問題ありませんか?」 「ええ。そういう貴女は大丈夫?菜花サン。」 私が微笑みを浮かべると、彼女は一瞬躊躇うような表情を見せた後、またふっと厳しい表情に戻り、 「私は大丈夫です。」 と答えた。 西野菜花(ニシノサイカ)。それが彼女の名前である。 大学生と言っていた。これまでのやり取りからして、彼女が聡明な女性なのは明らかだ。大学名までは聞いていないが、彼女の雰囲気、私の知り合いである慶応や東大の学生の雰囲気とよく似ている。 そんな彼女の隣を歩きながら、思う。 こんなに片意地張ってちゃ、疲れちゃうでしょうに。 ―――そんな考えが浮かぶのは、職業柄かしら。 私は、緋榁 成(ヒムロナル)。二十七歳。 得意分野は心理学。それ故、こういう個性的な人物を見ると、ついつい分析してしまいがちだ。 自分で言うのもなんだが、一応“色っぽい女”に分類されると思う。別に男を誘うのが好きなワケじゃないんだけど、ね。 数年前に髪を茶色にして以来、自然なこげ茶色のこの色が気に入って、ずっと染め続けている。長さはボブって所かしら。口紅の色はダークレッド。アイシャドウはブラックブラウン。 ―――ま、こんな所じゃ、化粧も無意味なものではあるけどね。 バッグを手にしたまま流されたのが幸いし、(濡れてしまったけど)煙草も化粧品もしっかり所持している。 それにしても、海水っていうのは酷い物ね。髪の毛がバサバサだわ。 温かいシャワーを浴びて、シルクのベッドで眠りたい――なんて、今は遠い夢かしら。 こんなことになっちゃうなんて、予想だにしなかった。でも、そうなってしまった以上は、それに従うしかないのよねぇ。 はぁ…。 ため息でもつかないと、やってられないわ。 「ああぁぁ!!」 突然響いた叫びに、私―――鳳凰寺楓―――はビックリして、その声の主を見た。 海岸線を駆けて来る女性、唯奈さん。 もの凄い勢いで駆けて来たかと思うと、私と芹華さんが駐留している森沿いの焚き火の30メートル手前程で、ズテン!…と、転んでしまった。 「え?………あれ、何?」 焚き火の向こう側にいる芹華さんは、きょとんとした表情で、砂浜で転ぶ唯奈さんを指差す。 「さ、さぁ…?」 私は彼女の問いに、首をかしげて苦笑することしか出来なかった。 やがて唯奈さんは立ち上がり、また私達の傍まですごい勢いで駆けて来ると、 「さ!…あ〜!…あ゛〜!……はぁ、はぁ〜…あ、あんな!!」 彼女は息も切れ切れに、何か伝えようとしているようだった。 私と芹華さんが黙って唯奈さんに注目していると、 「さ、さ、桜木舞がおるで!!」 と、言う。 ……さくらぎ、まい?? 「さ、さ、サイン貰わなアカンかな!!?」 唯奈さんは荒い息をつきながら言う。 サイン…?? 私と芹華さんが沈黙していると、唯奈さんは驚いたような表情で、 「あ、あんたら桜木舞知らんのか!!?」 と問う。 「誰ですか?」 と私が返すと、唯奈さんはもとより、芹華さんまで驚いたような表情を浮かべた。 「桜木舞って、そりゃ知ってるよ。あの国民的アイドルでしょ?」 芹華さんの言葉に、 「そうなんですか?」 と首を傾げると、 「そうなんや!!!国民的超美少女なんや!!!」 と唯奈さんに一生懸命返される。 ぁぅ。私、あんまり芸能人の人とか知らないから…。 困惑していると、突然芹華さんが立ち上がった。 「―――え!?居るって、どこに!!?」 「あ、あっち。」 唯奈さんが指差すのは、たった今唯奈さんが走って来た海岸線だった。 カーブになっていることもあり、彼女の言うその人物の姿は見えなかった。 「行こ!」 芹華さんは言い放ち、唯奈さんが指差した方向に懸けて行く。 「おう!」 唯奈さんも駆けて行った。―――って! 「ま、待って下さい〜!」 私も慌てて二人を追いかける。 一分ほど走ったか、息が切れてかなり経った時、芹華さんと唯奈さんを含む数人の人物が目に入った。さっき唯奈さんは個人名を出したので、一人だって思っていたけど、どうやら…芹華さん達の他に、四人の人物が居るらしい。 「はぁ、はぁっ……あ、あの、初めまして!わたくし、ほ…ゲホゲホ、鳳凰寺楓と、…コホン、も、申しますです!」 私は芹華さんと唯奈さんの傍までようやくたどり着くと、息も切れ切れのまま、ペコリと頭を下げた。 「だ、大丈夫か?ちょっと落ち着け。」 そんな声に、私は顔を上げた。そう声を掛けてくれたのは、ボーイッシュな外見の女性。私よりも少し年上のように見える。 それから、キレイな黒髪を後ろに結った同じ歳くらいの女の子と、無表情なこれまた同じ歳くらいの女の子と、そしてすごくキレイな少し年上のように見える女性。 「あたしは真宮寺芹華。」 「うちは如月唯奈、言います。」 芹華さんと唯奈さんもそう自己紹介し、続けて四人も名乗ってくれた。 「あたしは福智晶。よろしくな。」 と、ボーイッシュな女性。 「あ、私は橘アスカです。宜しくお願いします!」 と、黒髪の女の子。 「――秋月遊夢。宜しく。」 と、無表情な女の子。 「私は、桜木舞です。宜しくお願いしますね。」 と、どうやら唯奈さんが言っていた国民的美少女らしい女性。確かに唯奈さんの言葉は納得できる。すごくキレイな微笑みをする人だな、って思う。 「あ〜、まぁこんなとこで会ったのも何かの縁なので、今後とも宜しくね。」 芹華さんが、まとめるように言って、それぞれ挨拶を交わす。 七人、かぁ。 なんだかすごく賑やかになったし、心強い。 一人の力は小さいけれど、大勢の力を合わせればその力は無限大になるとお父様が仰っていた。 だから、大丈夫。 そう自分に言い聞かせるように言い、私は微笑んだ。 「っ…ヒッ、ク……ぅ……。」 涙を流すのは、いつぶりなのだろう。 ここに来るまで、ずっと涙なんて忘れていたのに。 私―――悠祈純―――は、すっかり暗くなった空を見上げ、また涙が溢れて来るのを止める術を持たなかった。 あれから闇雲に歩き、どうにか海岸線に出ることは出来た。 けれど、空腹感や、カラカラに乾いた喉、そしてこんな見ず知らずの土地でたった一人であるという孤独感に苛まれ、樹に凭れかかったままぼんやりとすることしか出来ない。 もう、動く体力も気力も、失っていた。 どこまでも続く海は、黒く、何も語り掛けない。 十代の頃に友達と遊びに行ったような青春の海とは程遠い。ここにある海は、悲しみの海。 いっそ、海に落ちた時、そのまま死んでしまった方が、楽だったのかもしれない―――。 こんなところで餓死なんて、耐えられない。 それなら、いっそ―――。 「………。」 もう歩く気力もなかったはずなのに、自然と身体が立ち上がり、砂浜を歩いていた。 そして、ピチャリと――冷たい海に足を踏み入れた。 革靴の中に染み入ってくる、冷たい冷たい海水。 一歩二歩、静かに歩いていく。足首まで海に浸った時、私は心に浮かぶ躊躇いに、立ち止まった。 このまま死んでしまって良いの? 私は、まだ生きることが―――。 ……でも、私の頭の中に浮かぶ顔はどれも、過去の人でしかなかった。 愛した人は皆、私の前から消えていった。 今の私は一人。 親も、兄弟も、すべてかりそめの存在でしかない。 私が居なくなったって、悲しんでくれる人なんて、いるわけない。 躊躇うことなんて、ないんだわ。 ピチャリ。 冷たい海水が、足の骨にまで染み入ってくる。 ピチャリ。 膝の関節が、海水に触れた。 やがて、腰が――胸が――。 身体の温度が下がっていく。 このまま、もう、逝ってしまおう。 その時だった――― 「待ちなさい!」 突然、背後から聞こえた声に、私は我が耳を疑う。 こんな時に、人の声なんて聞こえるわけが――― バシャ! そんな水音に驚き、私は振り向く。 暗くてよく見えない。 けれど、誰かが、海に足を踏み入れ、私の傍に近づいてくる。 「……。」 私は何も出来ず、立ち尽くしていた。 「…バカなことはやめなさい!」 女性は、私の傍に来て、厳しい口調でそう叱咤する。 大人っぽい女性の声。ぼんやりと見える輪郭。 「…ぅ、……助、けて……。」 私の腕を掴むその女性の胸に、私は寄りかかった。 彼女の身体もすっかり海水に浸かり、冷たく冷えていた。 「助けてあげるわ。…だから、海からあがりましょう?いいわね?」 優しい口調で、女性はそう言ってくれた。私が小さく頷くと、疲労と海水の冷たさですっかり体力を奪われた私の手を握り、女性はゆっくりと歩き出した。 水の中でも、彼女の手は、温かかった。 嬉しかった。 私はどこかで、こうして――止めてくれる人を待っていたのかもしれない。 でも、本当に現れるなんて―――!! 「大丈夫ですか?」 海から上がると、別の女性の声がした。 「焚き火を起こそうと思うんですけど、火種がなくて…。」 「あぁ、私のバッグに煙草が入ってるわ。そこにライターも入ってるはずだから。」 隣に居る女性は私の肩を抱きながら言う。 身体が凍ってしまいそうに寒く、彼女達のやり取りで、暖を取れるのだと理解し、ほっとした。 数分後。 パチパチと燃え始めた焚き火に、私は震える身体を寄せた。 ふと隣を見遣ると、小さな炎に照らされた女性の顔が見えた。 大人っぽい、キレイな女性。少し切れ長な瞳。その瞳はしばし炎を見つめていたが、ふと私の視線に気づいたのか、私を見遣り、微笑んでくれた。 私は彼女の肩に頭を寄せ、目を瞑った。自己紹介とか、した方がいいかなって思ったけれど、今はそんな気になれない。今は唯、こうして温もりを感じていられれば、それで良かった。 むにゅ。 妙な感触に、あたし―――真宮寺芹華―――は眠りから呼び起こされる。 あー、もう、もうちょっと寝かせてよ。 只今ノンレム睡眠真っ最中なのっ。 「おねーたまぁ〜。」 ―――ん? あたしのことを起こしてくるって言ったら、二人暮しの弟の裕しかいない。 でも―――あいつ、あたしのこと「おねーたま」なんて… ゾゾッ。 想像して鳥肌が立ちそうになる。あいつがそんなこと言うわけないじゃん! 「ねーちゃん、起きろよ」とか言って蹴り起こしてくるような裕が、あたしのほっぺた摘むなんて有り得ない!! 「…起きた!?やっぱおねーたまは効くのかなぁ?」 そんな声が聞こえ、あたしはゆっくりと目を開けた。 目の前にある、その顔。見覚えがあった。 そうだよね、見覚えがない顔があるわけない―――って!? ガバッ!ゴツン! 「…いっ…。」 「…たぁい…。」 あたしは思わずその場で半身を起こし、見覚えのある顔のおでことごっつんこ。 あたしとその少女は、同時に痛みに悶えた。 「な、な、な、なんで!?……生きてたんだ!」 おでこを押さえて涙目になる少女の姿に、驚きと共に喜びが込み上げてくる。 その少女は、あの客船内で隣の部屋だった、黒髪ショートカットの可愛らしい子だったのだ。 「えへへ…おねえさんも生きてて、嬉しいよ!」 少女は赤い林檎みたいなほっぺで、にっこりと笑った。 その時、クスクスと傍で笑い声が起こっているのに気づく。 少女の後ろには、あの時客船でこの少女と同室だったらしい茶髪の少女と、見たことのない女の子があたしたちのやりとりに笑っているのだ。ふと見ると、唯奈や晶も目が覚めているらしく、一緒になって笑っていた。 「いや、な。うちが丁度起きたとこやったんやけど、その時いきなりこの子たちが走って来てな。ビックリしたんやで。しかも芹華と知り合いやったとは。」 と、まだ寝起き気味らしく、眼鏡を掛けつつ言う唯奈の言葉に、あたしはようやく状況を理解したのだった。 この子たちは三人で行動していて、あたしたちがこの海岸沿いの草むらで寝てたのを発見してか、合流したというわけだろう。 「えっとねぇ、ボク、弓内かのんって言うの!お姉さんは?」 黒髪少女は言う。へぇ、一人称はボクなんだ。可愛いなぁ。 「あたしは真宮寺芹華よ。後ろの二人は?」 あたしが答え、後ろの二人にそう問うと、 「あ、萌は、皐月萌だよ〜宜しくね!」 と、かのんちゃんの友達らしい少女は言う。 「私は、哀元菜の花って言いますぅ。宜しくお願いしますねぇ。」 ふわふわ頭の女の子は、口調も妙に甘ったるくふわふわしていた。 結構心配な三人組だなぁ。いやはや、合流出来て良かった。 ―――その後、超空腹だったあたしたちは、遊夢が常備していたらしい携帯食で飢えをしのいだ。 その時に聞いたのだが、かのんちゃんと萌ちゃんは十五歳。そして驚くべきは菜の花ちゃん。なんと二十一らしいのだ。まさか年上とは思わなかった。 この三人、本当に緊張感ないけど、場を和ませるにはもってこいだった。心に余裕が出来れば、自然と士気も上がる。この子たちは後方支援として頑張ってくれそうだ。 「――よし。じゃあ、各自、今から食べ物探しに出発!」 あたしが言うと、みんな明るい顔で頷いてくれる。その反応に、正直なところ、ほっとした。 多分、この三人が居ないと、まだ雰囲気は暗いままだったかもしれない。舞ちゃんなんかは本当に落ち込んでて、励ますのが大変だったもん。 「萌・かのん!」 食べ物出発に出かけようとする二人に、あたしは声をかけた。 「ほえ?」 「なに?」 二人揃ってくるりと振り向く姿に、あたしは自然と笑みが零れる。 「ありがとね。」 ぽんぽんっと二人の頭を撫でると、二人は不思議そうな顔をしたあと、にっこりと嬉しそうに笑みを零した。 「お腹空きましたぁ……。」 「……あたしも。」 空腹。それは人類最大の敵であり、人類にとってもっとも恐るべき脅威。 なんて冗談ではなく、本格的にヤバいのである。 あたし――こと、國府田…は、一緒に行動しているリナと、このひもじさを共感していた。 樹の影の窪みで一晩を過ごし、お日様も高くなった今、あたしたちは行動を再開した。 今は、誰か他の漂流者と合流する云々の前に、この空腹を満たすことが何よりの最優先事項だ。はっきり言って死にそうである。24年間、ここまで生き長らえた命。餓死だけはしたくない。 「…國府田さん、この草とか食べちゃダメですかね?」 リナは座り込み、雑草を引き抜いて言った。あたしはそんなリナを一瞥し、 「―――食べたいなら食べていいわよ。」 と言い放つ。リナははぅ、とため息をつき、 「他の探します…。」 と、立ち上がって再び歩き出す。 確かに雑草ですら美味しそうに見えてきたのだが、高校の保健の授業で「やたらむやみに雑草を口にしてはいけません。」と習った記憶がある。面白い先生じゃなきゃ、そんなこと聞いちゃいない。今はあのユーモアセンス抜群な若い男の教師に感謝するばかりだ。 それから二十分ほど歩いたか、ふと、「チュンチュン」とさえずる小鳥の鳴き声に顔を上げた。 鳥か。あたしにあの鳥を掴まえられるくらいの抜群の運動神経があったらいいのに――。 「リナ、体育の成績は?」 「………5点満点中の、2点です。」 「ダメだ…。」 悲嘆に暮れながら、じゅるりと唾を飲み込みつつ、ぼんやりと樹に止まった鳥を眺めていた。 チュンチュン。 …。 ―――! 「食べ物、見つけた!」 あたしは言った。 「え!?」 リナは目を輝かせてあたしを見る。 あたしは、比較的低いその樹の枝に手を伸ばし、枝ごとぶちりと削ぎ落とした。 「……まさか、葉っぱ食べようとか言うんじゃないですよね?」 不審顔のリナに首を横に振り、 「この、小さな木の実よ。」 と、黒い粒状の木の実を指差した。 「でも、毒とかあるんじゃ…?」 尚も不安げに言うリナに、あたしはニヤリと笑んで、 「大丈夫!鳥が食べてたんだもん、イケるイケる!」 と言って、その黒い木の実をむしり、口に含んだ。そっと歯で噛み潰すと、じわりと酸っぱい味が口の中に広がる。あぁ、普通の状態じゃとても食べられそうにないけど、空腹の今となってはご馳走だ。 「じゃ、じゃあ…あたしも。」 リナは恐る恐る木の実に手を伸ばし、口に含んだ。そして… 「…美味しい!」 と舌鼓を打つ。その言葉からして、リナもとてつもなく空腹だったんだなと見て取れる。これを美味しいというのは、青汁を美味しいと言っているのと同じようなものだ。 それからしばし、あたしとリナは夢中で黒い木の実を食し続けた。 「……はぁ、生き延びました…。」 ほっとした顔で言うリナに、あたしは深く頷く。 「良かった良かった。」 ……笑顔で言った後、不意に、あたしのその笑顔は凍りついた。 突然、頭に過ぎったその言葉。保健の教師が笑いながら言う、あの情景。 『鳥が食ってるもんは何でも食って良い!……ってのは嘘でな。人間と動物じゃ身体の仕組みが違う場合もあって、動物が好んで食べるものが、人間の場合は毒になることもある。』 ――――あれ。 「どうしたんですか?」 リナがきょとんとした顔で言う。 「い、いや…なんでもない。」 あたしはリナに引きつった笑みを向けた。 『……ってのは嘘でな。』 ……って。 …嘘でな、って。 「あ、あ、あ、…あのクソ教師ー!!」 「こ、國府田さん!?どうしたんですか!!?」 「何が國府田さんだー!面白がって花火花火呼んでたくせにー!!」 あたしは思わず怒鳴って、ふと我に返った。 ……。 きょとんとした表情であたしを見つめるリナ。 あたしは言葉を失って立ち尽くしていた。 「―――………花火さん、って…言うんですか?」 リナの言葉に、ボッと顔が赤くなるのがわかった。 「ええい!うるさーい!その名前で呼ぶなー!!!」 照れ隠しに怒鳴ると、リナは嬉しそうに笑んで、 「へぇ…花火さんって言うんですかぁ…可愛いですね。」 とか言う。 「うるさいうるさいうるさーーーい!!!」 あたしはグーでポカスカとリナを殴り続けたのであった。…はぅ。 結局、お腹を壊すことはなかったが、リナに名前を知られてしまう結果になった。 あの保健教師とは、同窓会で会っても絶対口きいてやんない!決定!! 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