『図書館』

 〜渋谷紗悠里の場合〜




 中学生の頃。
 学校の帰りがけに、図書館に立ち寄っていた。
 頻度は、週に一度かそれ以下か。顔を覚えられるのがいやだった。
 一度に多く借りるようにして、頻繁に赴くことは避けていた。

「渋谷さん。」

 私の名字がもっとありきたりなものならば、その声が私を呼んだものと気づかずに済んだかもしれないのに。
 気づかなかった振りをして、通り過ぎることも出来たのに。
 そんなことを思いながら、顔を向けた。
 図書館の出入り口。出て行こうとした私を引きとめては、図書館のスタッフであろう女性は微笑を浮かべた。

「もう落とさないようにね。」

 差し出されていたのは、私の生徒手帳。
 いつ、落としたんだろう。気づかなかった。
 小さく頭を下げて、差し出されたそれを受け取る。
 きゅっと緩く握ると、ビニールの独特の硬さが手に当たる。
 私はもう一度頭を下げ、女性に背を向けて早足でその場を立ち去った。

 もう、この図書館に来るのはやめよう。

 当時の私。
 極度の人間嫌いだった。



 しかし、人間が嫌いな分…というわけでもないが、本は好きだった。
 様々なジャンルの様々な本を読み漁る。俗学を除けば、大抵のものは興味範疇内。
 図書館という本のお城は、夢のような場所だった。
 そんな私、堪えられたのはたったの二週間。
 あの時だってほんの少しだけ言葉を交わしただけだもの。もう、覚えているはずもない。
 神経質な思いを巡らせながらも、再び、図書館に足を向けていた。

「もしかして、渋谷さん…?」

 ―――掛けられた声。
 OUTだ、と。相手に見えぬように小さく嘆息を零した後で、振り向く。
 そこには、二週間前と同じ女性が微笑みと共に佇んでいた。
 書架と書架の間、狭い空間で、私と彼女。

 先日はよく見ていなかったその顔、改めて見上げる。
 美人というわけでもない、どこにでもいそうな女性。緩いウェーブの掛かった黒髪は肩に触れるほど。
 年齢は、三十代前半といったところだろうか。身長は私が少し見上げる程度なので160センチくらい。
 図書館のスタッフの名札には、『山田』と書いてある。

「やっぱり。最近来てなかったでしょう?」
「……はぁ。」

 私の顔を見て何が嬉しいのか。そもそも、何故私のことなど覚えているのか。
 にこにこと笑顔のままで、山田さんは言葉を続ける。

「あなたのこと、待っていたのよ。…いつも。」
「……」

 彼女の微笑みは絶やされることがない。
 この人はもしかしたら危ない人なのではないかと、少し危惧した。
 けれど彼女はふっと書架へと向くと、

「渋谷さん、こういう本好きなんじゃないかと思って。ほら、純文学も読んでたでしょう?」

 そう言いながら、一冊の本の背表紙を指でなぞる。
 続く彼女の説明は、理知的で聡明な印象を受けた。この女性も、文学的な人なのだと思った。
 何故、私にそんな風に薦めてくれたのかはわからないけれど、熱心に説明してくれる様子には好感が持てる。
 彼女から薦められた本、読んでみたけれど、想像以上に面白くて大満足だった。

 それから数ヶ月。
 私が図書館に赴く度に、彼女と顔を合わせた。
 会話は少ない。彼女はいつも楽しそうに、本を私に薦めてくれるのだ。

 あんな人もいるんだ、と
 心が少しずつ動いていることに、薄々気づいていた。
 その変化を私は、享受しようと思っていた。

 良い変化だったはずだ。
 それなのに、

 ―――変化を与えてくれた彼女から、否定されるなんて。





「もう閉館時間ですよ。」

 彼女が薦めてくれた歴史書を手に取った時だった。
 彼女は今日も私のそばに立って、微笑みを絶やさない。
 そんな二人の時間を過ごしている時、突然雰囲気を壊す、男性の声がした。
 目を向ければ、私が苦手としている男性スタッフの姿があった。神経質で気が短い、感じの悪いスタッフなのだ。

「閉館時間?」

 彼女を見上げて小さく問い掛けては、自らの腕時計に目を落とす。
 すっかり夢中になっていて、時間を忘れていた。
 私は歴史書を書架に戻し、「これはまた今度」と小さく言って、笑む。
 その時ふっと彼女が返してくれた笑みが、どこか弱々しい理由が、私にはわからなかった。

 邪険にするような視線を私に向けながら、そばをすれ違って行く男性スタッフ。
 その時、彼がボソリと呟いた言葉を、耳にした。

「ったく、独り言ばっかりで気味が悪い子だ……」

 ――…え?
 今、何て……

 問い返す勇気など、当然私にあるわけもなく
 男性スタッフの背を見つめた後で、私は彼女に目線を移した。
 微笑んでいるはずの彼女の目元に、笑みはなかった。



 翌日も図書館にやってきた。
 前日には閉館時間まで居続けたというのに、その日も朝一番に図書館へ。
 早起きをしたわけじゃない。……夜、一睡も出来なかった。
 学校は休み。いつもより少し人の多い図書館。
 ……けれど、彼女の姿はない。
 今まで一度たりとも、顔を見せなかったことなどないのに。
 一度たりとも――?

 ふっと、気づく。
 何故彼女は、いつも居たのだろう。
 私は曜日も時間も選ばなかった。彼女にだって休日はあるはずだ。
 なのに……

「すみません。」

 カウンターの司書に、小さく声を掛ける。
 司書の女性は「なんでしょう?」と微笑みを向けたが、次の私の言葉に、ふっと笑みを消した。

「山田さんっていう方に……」

 彼女の笑みが消えた瞬間、何かあるんだとすぐに気付いた。
 言葉は途中で途切れたものの、一呼吸を置いた後、更に続ける。

「……お会いしたいんですが。」

 私の言葉に困った様に沈黙した後で、ゆっくりと、その目線を何処かへと向けた。
 彼女の視線を追えば、そこには上り階段があった。



「山田さんは……事故で亡くなりました。」

 



 ――…案の定だった。
 彼女の話によると、それは一年ほど前のこと。
 誤って階段から転落し、亡くなったのだという。享年、三十三歳。
 小学生の娘が一人いたらしい。……しかも、母子家庭だったんだとか。
 文学と子どもを心から愛する人だったと、司書の女性は小さく語った。





「……どうして、成仏出来ないんですか。」

 図書館の入り口付近の壁に凭れて、呟いた。
 どこかにいるはずの彼女に向けて、問いを投げ掛けた。
 彼女は暫しの沈黙を守った後で、ようやくその姿を現す。

「驚かないの?…私を怖がらないの?」
「……別に。」

 目線を向けるわけでもなく、素っ気無く答えた。
 彼女は「そう」と小さく相槌を打った後、ふっと笑み交じりの嘆息を漏らす。

「娘に会いたいの。やっぱりあなたじゃ、娘代わりにはならなかったわ。」

 霊だとか、成仏だとか。そんなものが存在するとは思わなかったけれど、
 実際にこうして目にしてみれば、そこまで驚くべきことでもないような気がした。
 道理には適っている話だ。

「じゃあ、娘さんのところまで連れて行ってあげます。」
 
 彼女に向けて告げ、私は出口へと向かう。

「ま、待って。私はこの建物を出てしまうと、彷徨う霊になってしまうの。……必ず連れて行くと約束してくれる?」

 自縛霊と浮遊霊の中間の様なものなのだろうか。
 霊もややこしいのだな、などと思いながら、彼女の言葉に頷いた。

「勿論です。」

 今日は少し風が強い。
 ザァッ、と吹く風に目を細めては、私は小さく唇を開く。
 まるで人間のように、怯える素振りを見せながら後から歩いてくる彼女。
 私はそんな彼女を一瞥し、呟いた。



「消せ。」



 一瞬で終わった。
 霊は人体よりも遥かに不安定な存在。
 物理的に、何の意味も為さないその存在。
 逆に言えば、非物理的な要因で力を加えてやれば、その存在はあまりに呆気なく消え行くだろう。
 私の意思によって僅かに凪いだ風。…それだけで十分だった。
 天国とか地獄とか閻魔様とか、そんな存在は今も信じることは出来ないけれど
 霊魂だとかそんな物は、近い未来、科学的に証明されるのではないかと思う。実在するものとして、定義される。
 私のような限られた超能力者が、その先駆けとなるだろう。
 生憎、私はこのような研究に精を出すつもりなど微塵もなかったのだが。



 そうして、私専属の図書館ナビゲーターは消えた。
 信頼を寄せたその女性は人間ではなく
 相変わらず人間達は私に厳しい。

 だから今も、人間嫌い。

 あの女性がもしも人間だったならば
 私は、「死刑」になんかならなかったのかな。

 そんなことを考えながら、思いを馳せる。
 今はもう、遠き過去。

 ―――微笑を絶やさぬ、図書館の女性。










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