〜勅使河原玉緒の場合〜
ここは灰色の街。 人々は飢え、叫び、苦しみ… そうして、いつしか絶命する。 数年ぶりに足を踏み入れても、全く変化を見せずに、人々は悲痛の面持ちだった。 あたしだって昔は、この街の住人だった。 だけど。 あたしは自力でここから抜け出した。 あたしの心には、「希望」がある。 「もしかして…勅使河原の嬢ちゃんか?」 薄汚れた男は、あたしを見て目を細めた。 嫌な臭いが充満した小さな小屋で、男はあの頃と変わらず、そこにいた。 あたしの姿をまじまじと見つめては、小さく鼻を鳴らし、下衆じみた笑みを浮かべる。 「今ごろ、こんな処に何しに来た。…また、仲介でもしてほしいのかい?」 「いいえ。」 首を左右に振って相手の言葉を否定すると、たった今この空間に足を踏み入れるために開いた扉を、後ろ手に閉める。昼間ともいうのに、扉を閉めてしまえばうすぼんやりとした闇に支配される小屋の中。 仲介、という言葉に、あたしは酷く不快感を覚える。 あの時は無我夢中だった。生きるために何だってした。 ――堕落した日々。 「あの子は。…サヤは、まだ居ますか。」 その名を出すと、男は僅かに片眉を上げ、沈黙した。少しの時間を置いた後、「あぁ」と小さく声を漏らす。 「懐かしい名前だな。小柄な嬢ちゃんだったなぁ?」 「…。」 問いかけに答えて、と。口には出さず、沈黙で示した。 男は含んだような笑いを漏らした後、ゆっくりと口を開く。 「死んだよ。」 ……――。 覚悟していた答え。 とは言え、実際言葉として伝えられれば、ショックを受けるなという方が難しい。 気を落ち着かせるために深く吸い込んだ空気は、酷く汚れていて、余計不快感が募るばかり。 「……そう。それなら、もう此処に用事はありません。」 「待てよ。」 あたしが踵を返そうとした時、男はゆるりと立ち上がり、あたしを引きとめた。 一歩一歩近づいて来る。その度、男から発せられる異臭に鼻が曲りそうだった。 「久々に来たんだ。昔を思い出してはみねぇか?…今だって、客は大勢居る。」 「あたしは、もうあんなこと」 「いい子ぶるんじゃねえよ」 蔑むような口調で、男は言い放つ。 あたしの腕を取ろうと伸ばされた手を振り払って、男を睨み返した。 「あたしは、もうこの街の女じゃない。」 懐から取り出した拳銃を、男に向けた。男はさして驚いた風でもなく、肩を竦めながら後退する。 「まともな人間になったつもりか?…けどな、お前には娼婦の血が流れてるんだ。客との間に孕んだ娼婦のガキの癖に、偉そうな口きいてんじゃねぇぞ。」 「あたしの母親は死んだんでしょう?――もう、関係のないことです。」 「死んでねぇよ。」 「……。」 「街の隅の施設で、まだ生き長らえてやがる。会いに行ってやったらどうだ?泣いて喜ぶだろうよ。自分を捨てた娘と、感動の再会…ってか?」 肩を揺らして笑う。何がそんなに可笑しいのだろうと思う程、男は愉快そうに笑い続ける。 そんな男を一瞥した後、あたしは小屋を後にした。 欲望が支配した街、とも言い換えることが出来るかもしれない。 ここに住む女は、皆身体を売って生計を立てている。 …そんな街で育ったあたしも、昔は売春婦の一人だった。 物心ついた頃から、男に買われる母親を見続けていた。 あたしが初めて買われたのは、まだ生理すら来ていない幼い頃。 ―――蹂躙、され続けた。 「サヤ。」 そんなあたしの唯一の友達だったのは、あたしと同じ境遇にある一人の少女だった。 あたしは彼女の歳も、母親も知らない。知っていたのは、その名前が「サヤ」だということだけ。 「タマちゃん。遊ぼ。」 「うん!何しよっか。…かくれんぼ?」 「いいよ。タマちゃん隠れるの上手だから、今日はサヤが隠れるんだよ。」 「よぉし、絶対見つけるからねーッ!!」 大人しいサヤと、活発なあたしと。 まるで姉妹のように、いつも一緒に遊んでいた。 何を話していたかなんて覚えていないけれど、あたしはサヤと一緒に居る時、いつも笑っていた。 あたしが十五歳になった時。 サヤが泣きながらあたしを訪ねてきた。 「いたかったよ。」 と、何度も繰り返し、あたしの胸に顔を埋めては、泣いた。 今思えば、サヤは少し頭が弱かったのかも知れない。 嬉しい。悲しい。怖い。――サヤの感情はあまりに単純で、あたしはそんなサヤのたった一人の味方。 「頑張ろうね。ちゃんと頑張ったらお金が貰えて、ご飯も食べれるから。」 「うん。サヤ、がんばるから。タマちゃんもがんばってね。がんばろうね。がんばろうね。」 サヤは泣き腫らした目で笑って、お互いを励ますように、何度も何度も繰り返していた。 「こんな街、出て行こうよ。」 母親に何度も言った。だけど、その答えはいつもNOだった。 あの女は、この街に侵食されていた。 もう戻れないところまで来ていた。 薄い笑みを浮かべては、男に抱かれる母親を あたしはいつか、毛嫌いするようになった。 あたしだって同じことをしていたけど、だけどあたしはあの女とは違う。 こんなこと、本当はしたくない。だけど仕方ないんだと、そう言い聞かせては 身体を売った。 十七歳の時。 久々に見かけたサヤの姿は、見違えるほど、変わっていた。 その表情。その身体。その言葉。 「タマちゃん。どうしてタマちゃんは、そんな悲しそうな顔をしているの?」 サヤは屈託のない笑みをあたしに向け、問い掛ける。 「幸せだよ。こんなに気持ちいいのに、どうしてタマちゃんはそんなに悲しいの?」 ―――その時、あたしは悟った。 この子も、墜ちてしまったのだ。 侵食されてしまったのだ、と。 それから程なくして。 あたしは一人で、この街を出て行った。 此処はあまりに汚れすぎている。 あたしも侵食される前に、ここを出て行かなくては。 壊れてしまう。 もしもまたあの子に会えたのならば、手を引いて行きたかった。 こんな街にいることはないよ。この街の外には、希望があるんだよ。 教えてあげたかった。 侵食されたサヤを救えるとは思わなかったけれど、 例え、サヤが聞く耳など持っていなかったとしても、 それでも、無理矢理連れて行こうとさえ、思っていた。 ――― もう叶わない。 街の大通りは酷く荒れた道。 でこぼこに躓かないように、足元に注視しながら。人々の視線を避けるように、目を伏せながら。 それでも突き刺さる、吐き気がしそうな程、気分の悪い視線。 この街の人間は皆、侵食されているんだ。 あたしも昔は、―――? …。 嫌。 嫌だ。 いやだ いやだ!! あたしはもう、この街の人間なんかじゃない!!! 「タマちゃん。」 響いた声に、 耳を塞ぎたくなった。 サヤ。 サヤの声だ。 「タマちゃん、どうしたの?」 あたしの名前を呼ばないで。 あたしは、 あたしはサヤのように壊れたりなんかしない。 侵食されたりなんか……!!! 「タマちゃん!大丈夫!?」 「――…ッ…!?」 カッ、と目を開いた時、差し込んだのは白に似た光。 眩しさに眉を寄せた後、目を細めた。 その光を遮るように、ひょっこりと視界に現れた人物。 輪郭がぼやけ、その顔は陰になって見えなかった。 「サヤ…… なわけ、ないよ…ね。」 呟いて、目を瞑る。 ふわりと、額を撫ぜられる感触がした。 「サヤ?………タマちゃん、すごい汗。魘されてたよ?…嫌な夢、見たの?」 和葉の声だった。 優しい和葉の声。優しい手であたしの髪を撫でてくれる。 悪夢から解放されて、少し、泣きつきたい気分だった。 だけどあたしは笑みを浮かべる。 「最初は幸せな夢だったんですよ。ケーキが山盛りあるんです。」 「ケーキ?」 「でもね、制限時間があって、その時間内に全部食べなくちゃいけなかったんですよぉ。……それでつい食べすぎて、倒れちゃう夢でした。」 「……プッ。タマちゃんてば。」 少し強引な嘘。 無理があったかな、と不安だったけど、 クスクスと笑う声を耳にして、安堵した。 あたしは希望。 侵食から抜け出した、希望の人。 人々に与え続けよう。希望を。夢を。笑顔を。 それが 侵食という恐怖 地獄を知っている人間としての 使命。 |