〜安曇と紗理奈の場合〜
日曜日の午後三時。 秋の河川敷には、とても穏やかな風が吹いている。 お天気良好。雲ひとつない空なんていう言葉があるけど、 今日みたいにぽつんぽつんと白い雲が流れている空のほうが気持ちいい。 ちょっとしたグラウンドには、ボールで遊ぶ親子連れの姿が見える。 そう言えば子供の頃は、お父さんとお母さんと三人で河川敷に遊びに行ったこともあったっけ。 あれから十何年経ったのか。二十二歳、大学生ももうすぐ終わり。 就職先も決まって、学生最後の秋を忙しなく過ごす日々。 ―――けれど、今だけはそんなこと忘れてしまおうかな、なんて思ったりする。 此処はまるで、時間の流れが止まっているみたい。 「はっけーん!A・Iこと岩崎安曇っちゃん二十二歳!彼女とラブラブしているのか非常に気になるところです!早速ご本人にインタビュゥしてみましょー♪」 不意に、あたし―――岩崎安曇―――の詩的な思考を途絶えさせる、異常なまでにテンションの高い声がした。背後から聞こえたその声を無視しようかどうか一瞬迷ったけど、向こうはあたしのことを発見してるんだし、シカトしてもぶちぶちと文句言われるだけなんだろうなー、と思って振り向いた。 「ねぇ…紗理奈?」 あたしは満面の笑みを浮かべて、その人物の名前を呼んだ。「ほへ?」と不思議そうな顔をする紗理奈に、内心安堵感を覚えつつ、言葉を続ける。 「もしも人違いだったらどーするの?」 その問いかけに、紗理奈はさして考えることもなく、 「だってあたし有名人だもん!きっと人違いされちゃった人は『キャァー!もしかしてもしかしてサイケデリックリポーターの戸谷紗理奈さんですかぁ?!さ、サインして下さい!お願いしますぅっ!』とかなんとか言ってくれちゃって、あーん、そんでもって『紗理奈さんって恋人とか居るんですかぁ?』とか聞かれちゃったらどーしよ!紗理奈困っちゃうぅ〜、みたいな。」 ――…と、聞く方が疲れるようなハイテンションでまくしたてた。 あたしは、さすがにサイケデリックリポーターなだけはある、と感心しつつも、「聞いた方がバカだったよ」と呟いて見せた。 紗理奈はあたしの傍まで来て、一つ笑顔を見せる。 「久しぶりだね、安曇。大人っぽくなっちゃって。」 そう言いつつ、ふわりと握られた手。 抗う理由もないし、あたしはそれを握り返したけれど…少し気恥ずかしい。 そんな心中を隠すように、あたしは少し強気に返す。 「紗理奈は相変わらず変わらないね。24には見えないよ?」 「フフ。この歳になると大人っぽいって言われるより、若く見えるって言われた方が嬉しいよね。」 「…そういうもん?」 相変わらず―――だと、思ったけれど。紗理奈もやっぱり、歳を重ねてるんだなぁって。 少し大人っぽくなった顔立ちも、二つ結びだったあの頃とは違って、後ろに流した髪も。 Tシャツとミニスカートっていう格好は、年相応というよりも年甲斐もなく、といった方が相応しいかもしれない。いや、似合ってるから許せるんだけど。 「そういう意味では安曇も十分若いけどね。あたしら、まだ女子高生で通用しちゃうんじゃない?」 「はぁ?それは無理でしょー。」 「イケルイケル!」 紗理奈の無茶な自信に苦笑しつつ、ふっと思い浮かべる女子高生の自分の姿。 そう言えば、あたしが紗理奈達と出逢った時は、まだ女子高生だったんだっけ。 あたしが高三で、玲が大学一年生。…懐かしい。 って、紗理奈も二つ結びだったけど、あたしも二つ結びだったじゃん。 今じゃちょっとあの髪型は無理だよね。レイヤーミディアム、年相応の髪型。ハイネックにロングスカート。今じゃ化粧無しで出歩くなんて出来ないし。 ―――大人になっちゃったね。あたしも、紗理奈も。 「ベンチ発見!座ろっ!」 紗理奈はそう言って、あたしの手を引いて駆け出す。ちょっと不意打ちで驚きつつ、あたしもつられて駆け出した。 ザァッ、と草を揺らす風、二人の髪を靡かせて行く。 どさ、と紗理奈はベンチに座り込み、両手を挙げて伸びをする。にゃぁ、なんて鳴いてる猫みたい。そんな紗理奈がなんだか可愛くて、ついつい微笑ましい気持ちになりながらあたしは紗理奈の隣りに腰を下ろす。 田舎なわけじゃないのに、この河川敷の景色は沢山緑があって、空の色がよく映える。 まるで、異世界。 こんな気持ちのいい場所に居――― ぴとっ 「わっ?!」 突如あたしの思考を中断させ、頬に触れた冷たい感覚に声を上げる。 クスクスと笑いを堪える紗理奈の手には、缶コーヒーが握られていた。 「安曇ちゃぁん?あたしの隣りでぼーっとしてたら、こういうことになるのはよぉくわかってるよねー?」 「……確かに。隙を見せたあたしが悪ぅございましたっ。」 あたしは素直に、そう謝ってやった。今更紗理奈に何か言い返しても無駄だろうし。紗理奈の言う通り、紗理奈がこういうやつだってのはあたしもよく知っていることだったから。 紗理奈は楽しそうに笑いながら、その缶コーヒーをあたしに差し出す。 「ハイ、紗理奈ちゃんから奢り。今度なんか奢ってね。」 「それって、金持ちが貧乏学生に言う台詞かなぁ?」 「フフーン、世の中ギヴ・エァーンドゥ・テーイク…でしょ?」 なんて、妙な英語訛りもどきで返す紗理奈に笑いつつ、「さんきゅ」と言って缶コーヒーを受け取った。 紗理奈は自分の缶コーヒーを開けつつ、あたしと一緒になって笑う。 …やっぱり相変わらずだなぁ、紗理奈。 こうして紗理奈と会うのは、かれこれ二年ぶりくらいか。たまに電話なんかしつつも、お互い忙しくてなかなか会えなかったんだよね。 今日こうして久々に会う次第になったのは、電話で紗理奈に呼び出されたから。 『大学四年生とかさ、普通に忙しいのは重々承知のつもりなんだけど、まぁあたしの為なら「もう喜んで!」ってな感じで時間作ってくれるよね?ね?――ハイ、オッケー!じゃあ日曜日に河川敷で!!』 半分無理矢理というかなんというか。かなり強引に決められちゃって、今日になった。 そう言えば…電話の時は、まるであたしに会う必要があるような口調だったんだけど。 「…ねぇ、紗理奈。今日って、何か用事でもあったんじゃないの?」 あたしが問い掛けると、紗理奈はちらりとあたしを見て、口の中に残るコーヒーをコクンと飲み込んだ。 「………あ、いや、ほら。たまには安曇とデートでもしたいなーっと思ってね。」 光栄でしょぉ?なんて笑いつつ言う紗理奈。その言葉に、あたしは首を傾げる。 「本当にそれだけ?」 「え?……や、その…。」 口篭る紗理奈。わかりやすい。ははぁ、やっぱり何がお話があるわけだ? 「何よぅ。用事があるなら言え!」 ビシ、と少し強い口調でつっこむと、紗理奈は暫し言葉無く押し黙った後、 「――当ててミソ。」 と、クイズ形式にしてきやがった。な、何ぃー。しかもミソって何! とは言われても、はっきり言って予想などつかない。 紗理奈があたしに、話したいこと…? 「…もしかして夜衣子さ」 「ゲホッ!!」 あたしが彼女の名前を出した途端、紗理奈は大袈裟に咳き込んだ。 「せ、正解…?」 「……ゲホッ、ゲホゴホ…。」 肯定も否定もせずに、明らかに演技っぽく咳き込み続ける紗理奈。 「ちょっと、なになに?夜衣子さんがどうかしたの?」 更に追求すると、紗理奈は「うぅん…」と小さく唸りながら、考え込むように目線を宙に泳がせた。 その横顔、元気な紗理奈とは少し違うように見える。 「……夜衣子ね、結婚するかもしれないんだって。」 「え…?」 ぽつりと紗理奈が零したその言葉に、あたしは小さく聞き返した。その言葉の意味を理解するまで数秒。 そして、 「う、嘘でしょ!?…なんで?だって、紗理奈がいるのに…」 と、強く問い掛ける。信じられない気持ちでいっぱいになった。 なんだかんだでバランスの良い二人だと思ってたのに、まさかそんな…。 「夜衣子はね、あたしのこと好きだって言ってくれるワケよ?でも、そう言うわりにお見合いとか断んないし、こないだなんか、『昨日お見合いした人、結構かっこよかった』なんて言うんだよ?…ひどくない?」 紗理奈は不機嫌そうな表情で言葉を連ねる。 「…う、ん。……愚痴るために、あたしのこと呼び出したの?」 あたしは、笑顔の紗理奈しか見たことがなかった。 ちょっと意地悪で、でも妙に可愛くて、あんまり頼りにならないお姉ちゃんで。 なのに、今紗理奈が見せるその顔は… 弱くて、紗理奈らしくない。 少し悲しくて、思わずそんな問いを掛けてしまった。 「……愚痴とか、そんなんじゃ…」 紗理奈は小さく言い返すものの、その後の言葉が続かずに押し黙る。 小声で、「ごめん」と呟いた紗理奈。 あたしはそんな紗理奈に掛ける言葉が見当たらなくて、もどかしさを感じる。 「ねぇ安曇。…あたし、どうしたらいいと思う?夜衣子はあたしのこと、そのうち捨てるのかな。…結局、家庭とか持ってさ、普通の、どこにでもいるような普通の女になっちゃうのかな。」 ―――愚痴? …違う、紗理奈は愚痴りたいわけじゃないんだ。 あたしに、助けを求めてる? 紗理奈は少し悲しげに目を細めた後、缶コーヒーを一気に飲み干した。 こくんこくんと小さく動く喉を、眺めて、あたしは言葉を探していた。 ぷは、と息を吐いて缶を空にした紗理奈は、あたしの方を見て、少し笑った。 「安曇、あたし… あたしじゃ、夜衣子を幸せに出来ない…?」 微かに上擦ったその声、強がるような笑み。 どうしようもなく切なくて、あたしはそっと紗理奈の肩を抱いた。 「…泣かないでよ。紗理奈は笑ってないと紗理奈じゃないんだって。」 ぶっきらぼうにしか出てこない言葉が悔しかったけど、紗理奈はそんなあたしに何も言わず、身を寄せた。 あたし、紗理奈のこと、誤解してたかもしれない。 「夜衣子さんの気持ちはあたしにはわかんないけど…、紗理奈は、夜衣子さんのことが好きなんでしょ?その気持ちだけはちゃんと持っててね?後悔しちゃだめだよ?」 選びながら掛ける一つ一つの言葉が、紗理奈に伝わっているのかどうかわからなかった。 綺麗事なんじゃないかって思った。 だけど、こんな悲しい紗理奈を見ていたくない。 「…安曇さぁ、あたしと付き合ってみる?」 「………はぁ!?」 不意に、身を寄せた紗理奈が発したその言葉に、思わず大声で聴き返す。 紗理奈はふっとあたしを見つめると、そのまま、顔を寄せ―― ほんの一瞬、唇と唇が、触れた。 「……冗談だよ。んなわけじゃない。あたしは夜衣子一筋なのだ。」 強がるような口調の紗理奈。 その言葉が嬉しいのか悲しいのか、あたしにはよくわからない。 唯、何故か―― 「…あ、安曇…?」 あたしに目を向けた紗理奈は、あたしを見て驚いた様に目を丸くした。 あたしの、涙を見て。 「なんで泣くのっ?…い、イヤだった?」 そう問いかける紗理奈に、あたしは眉を寄せ、言葉を返した。 「何がしたいの…?…好きなら、その気持ちわかってるなら、なんであたしにキスなんかするの? あたしは…紗理奈の、何なの?」 その言葉に、紗理奈は少しの間無表情で押し黙った。 ――ベンチが軋んで、紗理奈は立ち上がる。 あたしに背を向け、紗理奈は言った。 「安曇のこと、好きかもね。あたし、夜衣子が居なかったら安曇にモーションかけてたかもしれないよ。」 …好き…? あたしの、ことを? 「でも、でもね、あたし、夜衣子のこと好きで…大好きで… どうしたらいい?夜衣子はあたしのこと好きじゃないかもしれない。でも、あたしはおかしくなりそうなほど大ッ好きで…。」 紗理奈の表情は見えず、唯、その背を見つめて言葉を聞いていた。 「夜衣子が憎いよ。この紗理奈ちゃんにこんなに沢山やきもち妬かせといて、そのくせ、好きだなんて言うなんてずるいよね。…あたしだって、夜衣子にやきもち妬かせたいし、苦しい思いを味あわせてやりたい…!」 「もういいよ、…紗理奈。」 あたしは、紗理奈のTシャツの裾をきゅっと引いて、言葉を遮る。 「あたしに言われたって、困るよ。あたしだって玲のこと大好きだよ。…でも、紗理奈のことも、好き、だよ?」 紗理奈は不思議そうな顔をして振り向いた。 そんな紗理奈に少し笑みを向けて、あたしは言葉を続ける。 「…好きだけど、あたしは玲のことを傷付けたくない。もし傷付けられたとしても、それでもあたしは、玲に笑って欲しいもん。――憎んじゃだめだよ、紗理奈。お願いだから、夜衣子さんのこと、好きでいて…――。」 「…安曇…。」 ぽつりとあたしの名を呼んで、紗理奈はその場に立ち尽くしていた。 そんな紗理奈にあたしがまた笑みを向けると、紗理奈も弱く弱く、笑みを見せた。 それでいいよ。 「親の…?」 あたし―――戸谷紗理奈―――は、電話の向こうの夜衣子から返された言葉を小さく聞き返した。 夜衣子が続ける言葉を聞いて、思わず、携帯を投げつけたい衝動に駆られる。 「夜衣子のバカァッッ!!!!!」 大声で怒鳴ると、ベンチの隣に座る安曇がきょとんとした顔をしていた。 ザァッと強い風が河川敷を吹き抜けて、あたしたちは乱れる髪を同時に押えたりなどしつつ。 安曇に愚痴ったって始まらない。今更そんなことに気づいて、取り出したのは携帯電話。 今すぐ夜衣子に問い詰めてやる!!と意気込めば、安曇は笑顔で賛同してくれちゃったりして。 ――今までそうしなかったのは、やっぱり勇気とか、そんなんが持てなかったから? でも、今ならイケル。隣に安曇も居てくれる。そう思って、夜衣子に電話を掛けたのだ。 そして夜衣子から返された言葉に、軽く憤りを覚えた。 「親が結婚させようとしてるからって、なんでそれに乗っちゃうワケ?夜衣子はそんなに良い子でいたいの?結婚なんかしなくていいじゃん!親の名誉とか立場なんてどうでもいいじゃん!!」 あたしがそう強く返すと、夜衣子は困ったように沈黙する。 その時ふと、以前の夜衣子と会話を思い出した。 『だって…やっぱり、女の子が好きなんて言えないよ…。』 ――そっか。夜衣子はあたしとのこと、両親に言ってないんだ。 「…夜衣子、覚悟しな。」 低い声でぽつりと言って、あたしはそのまま電話を切った。 思わず喉の奥から笑みが漏れる。 「さ、紗理奈…怪しい…。」 安曇が呟いた言葉に、あたしはふと我に返る。そして、ニヤリと笑んで見せた。 「夜衣子を悪い子にしてやるのだ。」 「へ…?」 「今から夜衣子ん家行って来る。んでんで、夜衣子の親に、恋人です!って言ってくる。」 「…本気?」 安曇は呆気に取られたような表情で、短く聞き返す。 勿論。と笑顔で頷いて、あたしはベンチから立ち上がった。 「ついでに、カメラの前で言ってやろっか!?嶺夜衣子っていう恋人が居ますって。そしたら、夜衣子に集るウザイ虫どもも寄ってこなくなるっしょ!ねッッ!」 メラメラと燃え上がる闘魂。そう、夜衣子とあたしを邪魔しているのは他人の目だ。 そんなの気にしてたら、恋なんて出来ないじゃん。 全ての人たちの間で公認の恋人になってやる。もう一生、夜衣子を誰にも渡さない!! 拳を握って意気込むあたしの肩を、ぽん、と叩いた人物。 振り向けば、安曇がクスクスと笑っていた。 「紗理奈、燃えすぎ。」 「あたしの人生、常にヒートアップだもの!!」 勢いで返せばまた何かつっこんで来るかと思いきや――― 安曇は、ふわりと、あたしの身体を抱きしめた。 「…あ、安曇?」 「ちょっと妬ける。」 安曇はあたしの耳元で囁くように言って、そしてすぐに身体を離した。 ちょっとだけだよ、と付け加えて目を細める安曇の頬が、少し赤く見えるのは―― …夕日の所為? 「夕方になっちゃったね。―――ほら紗理奈、青春の夕焼け。」 安曇は空を指差し、少し笑う。あたしは安曇の指差した方向に目をやった。 大きな大きな夕日が、キラキラと輝いている。 まるで、あたしの心のような。燃えるようなオレンジ色。 「今日は本当にいいお天気だったよねー。気持ち良かった。」 安曇は軽く伸びをすると、ベンチに置いていたバッグを手にとって「帰ろうか?」と小首を傾げる。 オレンジ色は少しだけ寂しい時間だ。バイバイの時間。 「…安曇、また会える?」 あたしは安曇と一緒に夕刻の河川敷を歩きながら、小さく問い掛ける。 安曇は少し笑うと、「もちろん。」と頷いてくれた。 ある晴れた日の河川敷。 大人になった安曇と、相変わらずのあたし。 微かな恋心など、なかったフリをして。 キラキラのお日様は、二人の影を少しずつ、長くしていった。 |